1,シンギュラティの上部構造と下部構造の簡単なラフスケッチ.
今まさにdesignの重要性は上がっていると感じる.
なぜなら,近代以降を生きるボクたちが直面するシンギュラティ,技術的飽和の時代にはスティーブ・ジョブスよろしくdesignという発想概念が切っても切り離せないくらい必要不可欠だからだ.
シンプルに言い切ってしまえば,シンギュラティという時代の変移には当然コンピューター科学,そしてその先に出てきたdesign,ユビキタスを駆使したスマートフォンが重要になるだろう.
コンピューターを準備したのは第二次世界大戦であって,携帯というものも当時はアメリカが軍事的に使っていくものだったのは有名だ.
それまで科学というものは大学や国家が独占する高級なそして未知の品物だったのだ.
しかし,コンピューターの思想家アラン・ケイが,ユビキタス・デザイン,つまり具体的に言えばタッチ・パネルを駆使したパソコンや子供が使うことを前提にしたビジュアル・デザインによって想定されたコンピューターを彼は予見してしまったのである.
これはコンピューター史にとって大きな革命だ.
実のところ,シンギュラティというすでに起きている技術的飽和の立役者たちは数学が得意だったり物理学が得意というよりも,文字に先行された抽象数学ではなくて,より立体的な造形センスに優れたデザイナーたちによってコンピューターが大きく形を変えてー,つまりプログラムの先を超えて大きく使いやすくそして大きく変わっていったことは忘れてはならない.
つまり,シンギュラリティを造るのはテクノロジーだけでなく,むしろデザインである.
シンギュラティという言葉を科学だと数学だと捨象してしまう危険性が大きくつきまとっており,これがデザイナー神話やシンギュラティに付きまとううさん臭さを漂われている.
本文はマルクスに逆らわずに徹底的な唯物論に孕んだシンギュラリティ実践を言語化していこうと思う.
もちろんデザイナーという仕事がそもそも夢をコンパクトにするという極めてデザイン的に圧縮するがゆえに,そこにアート的なインパクト,うさん臭さや神秘性を垣間見せてしまう危険性は大きくあって,実際にアラン・ケイよりもスティーブ・ジョブスや落合陽一という理数に優れたデザイナーもどきたちは多くの純粋なビジュアルタイズが得意な単なるデザイナーよりも優れたデザインをたたき出してきたし,実際に「天才」の彼らが天才神話という夢を優れた形で演じ切る,演じ切れるということはそれはもう本当に天才的なデザイナーと言っていいという皮肉なことが商業的にも発生したのは事実だ(あくまで天才は良くも悪くも上部構造でも勝つが,その実,下部構造も理解している隠していることは気づかないとならない).
しかし,ここでは等身大のシンギュラティを考えていきたいし,そのためには天才たちが天才がゆえにうさん臭くそして大衆たちもあがめてしまうデザイナー神話という上部構造を脱し,より徹底的に下部構造からデザインの神髄というのを多角的な方向から解釈したり理解し実践し考えていきたいと思う.
つまり,今までの時代は確かに造形的な理解だったり,美に関する仕事は天才や一部の才能に富んだり奇抜な美大生たちだけに享受されてきた品物だったが,シンギュラティ時代にはコンピューターやAIを前提にしたある種の第4次産業が基礎の下部構造になるため,当然に天才的と今まで思われてきたデザインの教養は開かれた必須教養になっていくだろう.
しかし,武蔵野美術大学に造形学部ばかりよろしく,文字と造形という概念はこれまでの近代教育では相反するものだったし,当然に大学という教育機関を引きずる武蔵野美術大学だって限界はあるわけである.
というわけで,シンギュラティ時代にふさわしい職種web writerや,批評系YouTuber団体ChaosForest代表としてささながら若者カルチャーに多少なりとも関わっている若手論客のこの私が,尊敬する私へ教授してきた先生たちの教えを文字のデザインという新しい技法,web writingを駆使したり,YouTuber時代を生きる私を含むZ世代たちにこれからのシンギュラティ時代に必須教養になる未来的な造形技法デザインの基礎と未来のデザインに関してざっくらばんに多方面からまとめ切れる交通整理が出来れば幸いである.
もちろんこれは,シンギュラティはあくまで商業アート,つまりデザインがあってこそ普及してきたしこれから先更にそのインパクトは広がりますよという話であって,とりわけスマホが流行った現代と自動運転AIのテスラが流行る近未来を想定すると,今基礎の下部構造になっているのは数学や物理ではなくて,デザインという話である(当然,この場合に政治,上部構造はコンピューターを作ってきた数学やコンピューター科学になる.現代に文系からもそして皮肉にも感性の落合陽一含む理系からもシンギュラティの発展をあくまで理系だけだと文系の人間含めて解釈するところに論点のズレという問題があるのだ.).
〈追記〉
前作,本は破れ!では大学の様々な学問を横断しながら,美が大事と説明したが,アートが容易にできる人間が殆どいないのにアートを先に行おうとする読者が多くあるように拝見された.なので,アートより簡単な,しかしアートよりは簡単なデザインに絞って美術を記述するのが今作の私の目的だ.そこらへんの連続性を意識してもらいながら今回の文章は読んでもらうと幸いである.
2,デザインとは何か?
デザインとは造形である.
もう一度言おう.
デザインとは造形である.
何度でも言いたくなる.
デザインとは造形である.
当たり前のことを言っているかもしれないが,これがなかなかに難しい.
たとえば,簡単にする側面もあるデザインという言語の解釈の難しさはそれが今では多義に利用されているし,これから先に紹介する武蔵野美術大学名誉教授・原研哉先生よろしくデザインの解釈というのは相当に難しいのだ.
というか,今先ほどに造形,形を造ると申した通り,そもそも言語というフレームワークでは解釈できないものだ.
しかし,これがシンギュラティ時代には基礎教養になるため,必ずここは抑えていかないとならないし,言語でデザインを伝える力はある意味ではこれまでの近代的な定義に収まるデザイナーたちには必要ない力であって,なぜなら言葉で説明する暇があるのなら,プロダクトを造った方が早いし客観的だからだ.当然にこれは解像度や解釈が遅れていて完全に当てはまらないが,テクノロジーの思想家でありメディア・アーティスト兼筑波大学教授の落合陽一の言う文脈のゲームから原理のゲーム,現象to現象といった話である.
まず言語というフレームワークを降りるという発想視野は実のところ,造形的に見えたから流行ったYouTubeというUIですら徹底できていないし,むしろかなり不徹底だ.
YouTubeは文字メディアと違うように見えるかもしれない.
しかし,いいねやわるいね,それに題名の長さやコメントといった言葉の羅列がかなり多いメディアという欠点を有している(これがまさにBlogメディア・noteのつながりたいスノッブたちの下品さであり,矛盾だが下品さゆえの魅力さなのだ).
どちらかと言えば,黎明期のニコニコ動画だったり,今だとTikTokの方が厳密には不徹底だけどデザイン的な造形をまず理解している気がする.もちろんYouTube・shortは造形に近い短い動画だけど,これも短い動画なら簡単だったりふざけていいでしょという話だと誤解されやすいのだ.原研哉がデザインのデザインで確か言っていたけど,80年代に流行ったポストモダン的なノリのデザインの諧謔はデザインの本質が分かっていない言語が先行した神経症だというようなニュアンスの否定を言っていたと思うけど,そう言語で理解する近代的な真面目な方々たちは神経症すぎるがゆえに,デザインをギャグだと思ってしまう(ネタツイ神経症).
お笑いを見ている人間たちが別段に面白くもない生真面目すぎるがゆえに面白いのだという皮肉は言うまい.
しかし,だからそれはツッコミという過剰に言語に支配された日常があるという前提が共犯関係的に内蔵されており,それはまさに良くも悪くもここでは非日常も内包するアートに近くて,デザインという日常の美はシンギュラティ時代を用意したものでもあるのだから,ちょうどデザインこそが科学的だし理系なんだという解像度の浅い理解が今再教育としては重要なような気がする.アートをより分かりやすくそして使いやすくしたのがバウハウスよろしくデザインという思想だからである.
ここでデザインを理解できるデザインのテストをしよう.
ようするにデザインという造形はそのものであって,たとえば,ちょうど目の前に石があるとすると,ナニを当たり前を…と言われるかもしれないが,アナタはどう今目の前を記述するだろうか?
問 目の前に石があるという事実がある.これを文字で記述せよ.
目の前に石があった.
これが一応のデザインの模範解答だと思う.
ふざけているわけじゃない.これが造形把握だ.
これをやはり言語で説明するのはなかなか難しい.
筆記ではなくてweb writingを駆使してもやはりどうやら完全に言語化するのは難しいらしいのだ.
これではやはり,目の前に石があった.とふざけているだけ,小学生の作文を書いているだけに見えるかもしれないのだ.
では,ここで小学校の算数における図形を導入して説明を駆使してみよう(図形数学はdesignの進化).
ようするに,目の前に石がある事実に対して,文字による説明をやめて,画像による説明をしてみるのはどうだろう?

そう,まずは石が目の前にあるとはこういうことだ.
文字で言われるより,画像の方が分かりやすいかもしれない.七面倒臭い屁理屈やしかめっ面な文字はいいよって.
しかし,このイラスト屋によるフリーによるよくある目の前の石もプロのデザイナーが加工した石の画像がゆえに危険だ.
もしかすると,イラストで説明しちゃうと,プロのデザイナーが加工した石があった.という記述になってしまうかもしれない.
これでは目の前に石がある事実をちゃんと正確に記述するのは難しい.
意外にも目の前に石がある事実をしっかり記述するのは大変な作業なのだ.
さて.今目の前に石があった.という解釈と先ほどのイラストの石による解釈があって,どちらも正しいけれどよりデザインしていく必要がある.2つの解釈を許容できるような… .
そういった折衷的なデザインを僕たちは行わなければならない.
で,じゃあ,これはどうだ?
キミの目の前に石が見えていた.
難しいことを話していて,石が目の前にある事実をただ文章で説明してもイラストで説明しても2つの違う解釈で混乱するために,石がどうこうという話はとりあえず脇に置いておいて,とりあえずアナタの目に映るという共通項で絞って記述してみせた.
キミの目の前に石が見えていた.
もちろんこれも情報を絞ったり,揚げ足的にそれが皆が思う正解か?と揚げ足を取られる可能性もあるにはあるけれども,これがデザインの凄さであり,デザインの難しさだ.
もう一度言おう.これはもう納得しないか?
キミの目の前に石が見えていた(もちろん石はSF的には存在しないんだよ!とか揚げ足をとれるがそれはギャグとツッコミでありネタツイ神経症的でdesignを否定できていずに言葉だけが神経症な統合失調症としてつるつると滑っている).
デザインをするということは一見簡単に説明しながらも,造り手のほうは様々な角度から矛盾したり突っ込まれることに対する多方面の理解というのが必要になってくるのだ(こんな簡単な文章でも理解するのは難しい).
もちろんただ揚げ足をとっていたらいいというわけではない.
ここが難しいところでデザインは基本的にデザインをどうするか?という先ほどの実践的な話を脇に置いておいて,歴史的な通説で解説すると商業アートであり,SNSを代表的に考えたりメタバースの時代にはなおさら超商業時代でもあるため大衆に引っ張られて余計にデザインの困難さと同時に必要さというのはキュレーションとして必要になっている気がする(歴史的な話は今回は省いた.それこそ分かった気になるからであるからだ.詳しくはニーチェをWikipediaで検索するように調べてくれ.分かった気になるからある意味無駄).
ここまでの話をまとめよう.
a,デザインはシンギュラティ時代における下部構造,見落としがちな基礎教養である.
b,デザインとは造形だ.難解で非実践的なアートを分かりやすく実践的にしたものだ.しかし,造形であると同時にコミュニケーションとして大衆的な所に関わる面もあるし,スマホというユビキタス・コンピューターよろしくデザインの価値が皮肉にも大衆へ需要が起きているけれど,皮肉にも皮肉にも言語だったり近代だったり大衆にはなおさら手に届かない難解すぎる品物なのに簡単に手に入れたいという,神のような矛盾に溢れた概念なのだ.
よくユーチューバー論客をやっていると,大半の熱狂的な視聴者はアンチをしながらファンをするという気味悪いヤツラばかりだけど,これなんて典型的なデザインの矛盾であって,炎上よろしくインターネット時代の問題であって,言語は簡単だから普及したのに造形をどう普及するか?という問いは先ほどから何度も指摘しているとおりになかなかに難しいことなのだ(難しいからシンギュラリティには昔の近代みたいに胡散臭さがまとわりついてしまう).
もちろん,造形的なデザインが難しいというのは言語があまりに優先された近代教育をボクたちが受けすぎているからで,これはライフスタイルの違いであって,宗教が支配していた中世時代ならむしろ観念的だけど文字よりも造形に対する感度は高くて文字の方がとりわけ難しい人々がいたかもしれない(こういったロジックとパラフレーズを駆使したジャンル横断的な横の歴史的アプローチ整理を私は今回採用する.理由は言うまい.designは造形だからであり,そこからは更に重複する).
つまり,縄文時代における石器や狩猟というマインドから弥生から中世における観念的だが数理的に体系化された新時代へマインドをシフトしないといけないような価値観のスライドがここで起きていて,これは科学史家トマス・クーンよろしくパラダイム・シフトであって,異なる価値観と異なる価値観は相いれないがゆえに時代は変わっていくというエピステーメー,認識的切断をここで垣間見ることになるだろう(高橋昌一郎『理性の限界』が中3時代に参考になった).
線形思考的なニュートンのプリンピアと非線形的なアインシュタインの相対性理論が相互矛盾するようにここには二者,つまり近代と脱近代,とりわけシンギュラティによる時代におけるトレンドで後者が優位という面はあって,相互矛盾しながらとりあえず二つの道具を使って文字と造形どっちもより強く意識しながら使っていくしかないのだ.それですら後者を使うのはためらうと思うけども.
3,理系の危険性.
シンギュラティを理解する上でやはり理系という解釈は不徹底だと思う,美味しんぼよろしくwindowsとmacの永遠に終わらない対立に終止符を打ちたくてボクはここに来たけれど,皮肉なことに先ほど申し上げた通りにコンピューターの普及はある意味ではデザイン的なmacそしてGoogle,スマホが押し上げてきたので,矛盾する言いようになるけど,下部構造の経済を支えているのは何億にも及ぶ大衆たちのコンピューターを利用できるという数学の民主化にある.
私はwindows派だが,macはとりわけ重要だ.
そうなるとマルクスの通説はデジタルネイチャーでも無意識的にけっこう指摘されていたけれど,AI資本主義的なGAFAを代表する意識高い系たちがAI共産主義を利用し,そしてAI共産主義がAI資本主義のように経済の下部構造を規定するといういささかアクロバティックで複雑なパラドクスになっているのだ(ここらへんの思想史的な込み入った話は詐欺師のマトリョーシカという他文で解説した).
もちろん大衆の悪化は凄まじく文句を言う大衆たちを貧者のVR,メタバースにぶち込むしかない22世紀の民主主義という状況にいささかなっているけれど.
というわけで,コンピューターを設計したのは確かにビルゲイツよろしくハッカーやプログラマーたちであるけど,それは今では上部構造的な政治団体,今のホリエモンやイーロン・マスクよろしく彼らたちが技術者上がりのギーグだったことも本人も世間も忘れて単なる資本家の芸人というAI時代の政治家に良くも悪くもなってしまった.
シンギュラリティ=理系というのは大きな勘違いだ.
こういった現象は左翼のマルクス主義をどうにか残そうとしてしまった構造主義の運動に思想史的には近く,アメリカのヒッピーやドラッグカルチャー,サブカルチャーとも相互干渉的だったカリフォルニアン・イデオロギーに潜む新構造主義性だと言えよう.もちろん新デカルト主義を立ち上げた現象学のフッサールやメロン・ポンティたちがその実に対照的な右翼的なハイデッガーや蓮實重彦たちを準備してしまったと捉えるとよくある理系が文系を生んでしまう,理系こそが政治なんだというパラドクスに満ちた数学という名の文系的宗教の問いなのかもしれない.
論点をまとめよう.
a2,シンギュラティには上部構造と下部構造がある.
b2, 政治はwindowsであって,経済はmacというトポロジーな矛盾が今起きて事態を言語化するのを困難にしている(AI政治とAI経済の対照性).
c,しかし,歴史的によくある話で,理数が得意な人間のアイデアを文系が得意な人間が後期に応用する,その逆も枚挙にいとまがない(イリヤ・プリゴジンがドゥールズに影響を受けたなど…).
まあ理屈を言っているのなら手を動かせという話が結論かもしれない.ここで大事になるのはテクロノジーの思想家・落合陽一がデジタルネイチャーで引用する希代の発明家トーマス・エジソンの生き方である.
口で言っている暇があるのならどんどん手足を動かして
行動しよう.
おっと,これでデザインという造形の要をやっと言語という最小のセカイに落とし込めたかもしれない.
もちろん,着いてくるなということに着いてこいというその実矛盾めいたことを文字化している行為が行動しようという政治的な言葉であることは忘れないように(アートを大衆化するなど土台無理があるのだというツッコミが堀江貴文やイーロン・マスクたちからきそう).
イタリアの行動的な思想家アントリオ・グラムシの格言を最後に提唱しよう.
英知においては悲観的であれ,しかし,意志においては楽観的であれ.
当然,より「厳密なデザイン」?の理解や把握はこの後に紹介し私が文字でデザインしていく,その実矛盾を孕んだweb writingという行為に譲りたいと思う(そもそも言語というプログラムのようなチューリング・マシン的なフレームワークを捨てて,サトシ・ナカモトに代表される仮想通貨に関係する最新の量子コンピューター的な価値観へマインド・シフトせよというそれだけの話でもあるが,先ほど話した通りに,近代科学を引きずる量子コンピューターは超ひも理論よろしくあくまで科学の徹底の成果であって,良くも悪くも大衆的なデザインの理解も下部構造では重要なのは言うまでもない.言語の困難さを突破した品物にprogrammer初田龍胡『超科学/ピュアランダムネス』がある.下部構造的な,そちらの上部構造における裏面を意識したのがこちらであり,両社を副読すると効果はてきめんだろう.ちなみに彼は医学部出身であり,手術に繊細な手法は造形と共通がある).
designのdesignという新たなシンギュラリティ時代の下部構造の下部構造の規定化はまだ始まったばかりだ.