秀才は考え抜かない。

 

 秀才ほどたちが悪いものはない。

 なぜなら秀才は考えることは得意でも、考え抜くことは不得意だからだ。

 ここにパラドシカルな問いが発生する。

 秀才へ考えることは得意だねと褒めながら、と同時にキミはけれど考え抜くことは苦手だねと言わないといけない。

 これはよくYouTube視聴者でも多少はその傾向がある。

 たとえば、私の動画や本をたくさん見たり読んだり、それ以外もたくさん諳んじている。

 なのに人生が苦しいのだという。

 こういう馬鹿は決定的にこんな単純なことを見逃していて、今は諦めたから言わなくなったが、大体はこうである。

「なぜキミは陽キャ哲学普及協会とボクをフォローしているの?」

 そういうと大抵、彼らは固まる。

 言い訳や思いがけないこと、そんなこと…という反応をする。

 しかし、陽キャ哲学普及協会と私を同時にフォローするのはあまりに危険な行為なのだ。

 陽キャ哲学のファンは構わないし、彼の考えが好きなのは構わないし、彼には彼なりの賢さがあると信じる人たちが一応はいるのだろう。

 しかし、私は特に陽キャ哲学普及協会だけは認めていないし、私のアイデアを盗んだ屑だし、彼には総合的に見ても屁理屈と素人騙しばかりでつまらない大学教授が詐欺に目覚めたレベルぐらいしかないし、私は私は私はそう言っている。

 私が陽キャ哲学に怒っているのが問題というより、その視聴者の頭の中はふわふわしすぎていてポジションも張れないし未だに他責でいる。

 だから、古田更一をフォローしながら陽キャ哲学をフォローするなどという愚昧をするのだ。

 秀才は暗記だったりなんか大事そうなものだと集めることは得意でも、古田更一はどうしてあんなに陽キャ哲学を嫌うのか?という私の考え抜くことに対する厳しさや厳密さを見逃している。

 もちろんこれは初級者向けの話で仮に哲学を志すとか常識ぶるならあんな低レベルな屑を見ているからダメなのだ。

 むしろメンヘラは自業自得であり、裁かれて当たり前なのだ。

 もちろんバランスよく人間関係のつながりを把握できる人や初めから慶應義塾的なノリ、パリポなノリで陽キャ哲学と私をフォローするのは結構、FPもとこ的なノリだ。

 しかし、私は唯物論メンヘラで(3人ぐらい効いた)というのは、そもそも言葉の解像度も浅いし、昔はよくその手は陽キャ哲学とオレをどちらもフォローしてみんな仲良くして!と逆ギレされたものだった。

 

 何を言いたいかと言えば、秀才は

考える

を単純にやりすぎて、本当は考え抜くことが重要だが、言葉の語彙が少なかったり頭が回らないのに回っていると勘違いし、

陽キャ哲学と古田さんが絡んでいたところまでは近づけても、

なぜあの二人があんなに中が悪いか?に踏み込む勇気もなければそこまで考え抜きたくないのだ。

 しかし、本当はそこにこそ意味はあるのに、雑に陽キャ哲学や古田を同時にフォローしてしまう。

 次に多いのが木澤と古田をフォローされるだが、まあこれはメンヘラではないものの、ちょっと人生ヘラっていて苦しそう。

 なんでも漠然と状況整理もなく漠然とするのは、メンヘラや馬鹿、ひいては秀才の限界だ。

 しかし、秀才病は果たして治るのだろうか?

 答えは、NO.

 数学ができないリスクを取れない大半は秀才として叱られるメンヘラであることに酔っている、前半の問いへ

戻ろう。

 

秀才へ考えることは得意だねと褒めながら、と同時にキミはけれど考え抜くことは苦手だねと言わないといけない。

 そう。秀才は短期合理の官僚であり、しかしそれはやはり素晴らしいことなのだ。

 要するに秀才は楽しいからなるのだ。楽だからなるのだ。

 天才になれないのは痛みを先に舐めてしまったツケである。

 天才は秀才へこう言う。

 楽しくないことが楽しいし、楽じゃないことが楽だよ。今から顔出ししてYouTubeLIVE配信を毎日してみよう。

 あるいは、メンヘラを囲い込む曖昧さはやめよう、楽しいことが苦しいと抜かすことに共感する宗教はやめよう、貴方たちデマゴーゴスは早く自殺しよう、目の毒。

 後半は、キュアロランバルトや中央大学だめライフ愛好会、ベテランち、にゃるら、成田悠輔といった1級品の秀才たちへ着眼した。 

 彼らに怒りはないが、共同体に甘い汁を飲ませる女優みたいなもんで、内実性はないだろう。ただ彼らも考えることはすごぶる得意なわりに、考え抜くことが苦手すぎる悲劇動物たちなんだ。

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