DJこそDJではない.1つの悟りについて.

 私が最近考えている問題の1つにDJの存在がある.

最近若者の間に流行っているらしく実際に見に行って図々しい言い方だが感覚的にどういうことが起きているか感覚的に分かってしまったからだ.

並べて光栄,いや不謹慎すぎて恐縮だが私が3年前のコロナウイルス時に不謹慎系YouTuberへ師弟したときのアクションと似た匂いを感じ取ったからである.

身体の解放.

ありきたりかもしれないが,リミックスを利かしたバイブレーションに弾けた音楽の速度を感じるときに身体が浮遊する感覚はあるだろう.

だが,同時にまた失礼な言い方になってしまうかもしれないが,DJ本人は不謹慎系YouTuber坂口章はテンポの高い音楽に一番最前線で酔いながらも冷めていないといけないということである.

一番音の直接的な影響を受けるがゆえに需要者として酔うと同時に目覚めているダブル・バインド的な感覚が必要になる.

ということはDJこそDJではないのだ.

DJだからこそ同時にDJでない否定神学に同時に片足を直感的に踏み込んでいるのだ.

 言われてみると当たり前だが,この感覚を見逃す人々が多いように感じる.DJはDJであるために観客以上によいながら同時に冷静であらないといけないからだ.

もちろん彼らが彼女たちがこのようなある種のダブル・バインド性(矛盾)を理屈的にましてや意識的にやっているわけでなく,荒く直感的に身体のバイブレーションに合わせてリズムカルに行っているだろう.

もちろん身も蓋もなく言えば,料理のプロが毎回わざわざ豪華なメシを自炊で作らないよねみたいな料理が上手くなるにはえ,そんなしょぼいメシを自炊するの?!みたいな話だ.

ここに悟りだったり考えるだったりの困難があると思う.

私は陽キャ哲学普及協会という哲学YouTuberが嫌いだが,’理由の1つは彼は素朴に哲学を語るところだ.

古田くんはハイデガーなんだねと処理されてしまい、たしかにその理屈の第一義は当たっているが、その限界を超えるためにわざわざ不謹慎系YouTuberというフックが用意されるが、不謹慎系YouTuberは単なる方便,意味不明な行為として彼の中では無下にされる.

きっと思考が壊されることが怖いのだろう.

しかし,不謹慎系YouTuberというYouTubeを駆使したmediaartによる身体変化は重要で,スタティックな哲学史の病を私は指摘している.

しかし,厄介なのは私は日本人の身体に適した批評史という過去の遺物は肯定していて,体系がないと人は苦しんでしまうし理屈や歴史の真面目さも肯定している.

要するに私もDJでありDJではない感覚を本は破れ!では要求していて,哲学しようと思ったら哲学していない状況も同時に起きているんだと私は感じていたのである.

 まずさの中にこそ苦みのあるハマグリのような旨さがあるのだ.

ただ昨今多い問題は,DJは賢いんじゃないか不謹慎系YouTuberは賢いんじゃないかという問いだと思っていて,

彼ら彼女らは賢くなろうとして賢くなっているよりも精密な音のリズムを追求したら結果的に賢くなっていたり普通じゃたどり着けない速度の知性を一瞬垣間見せるブレイクスルーが言語外の表現にはあることだ.

がゆえに,彼ら彼女らを高く見ているからこそ,真逆としてベタにテキストを読み込む重要さはむしろ上がっている気もしている.

なぜなら,革命をしたがる外山恒一合宿やだめライフ愛好会には読書量こそ足りて無く軽いSNSデモをする前にマルクスや数学、あるいは自身の学部学科のテキスト勉強で補強したほうが、中途半端な身体のデモやSNSよりは理屈で乗り越えやすい,その閾値までまだ頭の容量はあるよと感じるからだ.いっそ中途半端にデモをするのならば,ベタに体系をやったほうがいい,さながら國分功一郎のように.

このDJが賢いのか問題はそのままテキストの限界を感じさせる.

しかし,シンギュラリティ,AIが人間の知能指数を超える,まあ加速主義と言っても良いでしょう,シンギュラリティを前提にすれば,極左も極右も死に絶えた次のパラダイムを意識すれば,DJは広義の音楽における情報デザイナーであり,むしろ機械音を編集するシンギュラリストとして読み替えることができるだろう.

もちろん加速主義そのものが文芸やテキストから遠く離れた馬鹿馬鹿しい行いかもしれない.

しかし,ポストモダンという冷笑的な否定言語による文芸の延長はもうそのまま文芸の終わりを約束していた気もしてならない.

論点が様々に飛躍して誠にすまない.

 私がDJについて言いたいことはDJはDJなりの悟りをアウトプットするが,受け手はそれをそのまま供給するのは素晴らしいことだしすべきだが,

 

 仮にDJを聴いた人間があるいは不謹慎系YouTuberを見た人間がいざ自分なりにその悟りや心地よいリズムを叩こうと思ったら全く真逆の方法でそして全く違う快楽のようなものを導くべきなんじゃないか、それこそがDJがDJでなくなるときの冷静さまで包括できるんじゃないかと私は裸で踊りながら直感的にそう感じていたのである.

〈追記〉

私がDJについて最近言及するのにも純粋に面白かったも本当にあるが,それ以上にDJが現代で流行る意味がどことなくテキストや文芸と非常に関係している,一見正反対の事象がゆえに密接しているような奇妙な感覚を私は感じ取ってしまって,この奇妙さを言語化したいと思っていたからである.私個人として無意識だったが,全くジャンルが違う坂口章の言っていることやっていることをどう咀嚼したか?自体を考えたことがなくて,自分でもどうやって坂口章の言っていることやっていることを理解したか?振り返る必要を感じたからだ.

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