唐突ですが、私は加速主義者です。
しかし、テクノロジーや資本主義を礼賛する連中の中にも様々な派閥や考えがあり、そのことが私の主張を分かりづらくしているのです。
私は右派の加速主義者であり、AIが人間の知能指数を超えること、シンギュラリティは当たり前という前提は初田龍胡や落合陽一など含め共有していますが、どういう社会を作りたいか?という点でAIや資本主義には否定的です。
むしろAIの発達によって人々は過度期において実存的にAI未満だと様々な背景から悩み苦しみメンタルヘルスの問題が増えると考えるからです。
また、AIが人間の知能指数を超えるシンギュラリティの世界観で生きたいと思う人間たちはどこまでいるのか?未知数で、資本主義以上に恐ろしく非人間的なディストピアだと私は思います。
よって、シンギュラリティ時代にはシンギュラリティ時代に適した人格やパーソナルの身体修行が大事ではないか?と私は考えました。
思弁を追求するとシンギュラリティや加速主義に否応なく現代は到達します。
しかし、それは私も共感しつつも一握りのエリートたちによる独裁を許してしまうし、完全なシンギュラリティ・エリートたちが描く世界観にどうしても理屈では分かっても生きたいと思わない。
そこに現れたのがGAFAMの用意した洗脳装置を縦横無尽にハックして自由にアルゴリズムの世界を行き来する達人・不謹慎系YouTuber坂口章さんです。
彼はアーティストであり、数学やAIに支配されずに意味をナンセンスにして、だけど鼻に辛子やわさびを入れたり、沸騰するフライパンに直接殻ごと卵を投げつけて手で食べて映像メディアをぐちゃぐちゃにナンセンスにぶち壊すことでSNSという認知科学により人々を支配するようにDESIGNされたアルゴリズムの開放を感じました。
そして、彼に直接師弟して顔出しして真似て不謹慎系YouTuberをやり他者を攻撃すると自分にも攻撃の火の手が降ってきて荒療治的にSNSの使い方が上手くなりました。
要するに、メンタルを良くしAIに負けない人間になるには、現象学、物事の本質をまず見よう、というフッサールの言語的な問いを身体まるごとで体験しないといけないからです!
シンギュラリティで文系が死ぬのも、文系がバカというよりも、文系の提示した問いはあくまで言語や抽象論に収まっているため(むしろ文系的な問いそのものは重要)、実際に身体をつかってまるごと試す必要性が上がっているのだと思います。
また、日本特殊論というか日本人として思想をやりたいという図々しいところもあります(笑)(つまり、日本のローカルの楽で楽しいノリが好き)。
思い上がるなよ以前に私はそもそも武蔵野美術大学へ入学したため、初めの目標はゲーム会社へ入って遊びながらダラダラ生きていくことでした。思想に興味がなく、学問にも興味がなく、ニコ生のひろゆき東浩紀の無料放送の延長線上で図書館や本屋に入り浸り考えることが無目的的に快楽的で趣味でした。
なので、趣味を本気でやる辛さよりもゲーム会社の方が楽できると思ってました。ゲーム遊びながら金もらえるは最高じゃないですか!
だけど、ゲーム会社へ大学中に入ってマジでブラックと知りがっかり、もちろん探せばブラックじゃないゲーム会社もあったかもしりませんが、楽したいが先にあるため、NOになりました。現実はくだらない作業ゲーでした。
また、ただ株式会社DeNAへひょんなことからお邪魔させていただきましたが、あまりに意識高い系すぎてゲームという話題で見に行くことができましたが、加速主義すぎてついていけないというのも現状でした。
でも、ひょんなことから海外の方が楽とわかり、web writerは自分としては苦痛ではなくて毎秒書いていられるので、そんな感じに落ち着きました。
またYouTuberも暇つぶしで見ていてあまりに不謹慎系YouTuber坂口章が面白すぎて、普通に他にもお笑い動画をあげたりYouTuberのマネして動画をあげた所、浅田彰やカントの紹介や不謹慎がウケることに気づき、最終的に古田くんの思想を解説する!思想系不謹慎!&はるしにゃんの生まれ変わり!とかいう訳わからん誤解が生まれたため、仕方なく本は破れ!という本を書きました。
思想業界も論壇とやらも全く興味がなく、ただ楽して楽しく生きたいしか能がない快楽主義者(エピキュリアン)なので、なんでこんなに自分が嫌われているか今でも直感的には理解が不能ですし、アンチをしている暇があるのなら働くかポテトチップスを食べたほうが生産的だと思います。いまだにこの哲学や文学、アカデミック業界とやらはよく分かっていなくて、どうしてコイツラは苦しい方向へ自分たちを持っていったり内ゲバしているのかよく本当に今でも分かりません。
あくまで頭の回転が小賢しいだけの庶民だと今でも思っていまして、日本という国は政治的にはやっぱり美味しいし、日本人の自分にノリがあっている。経済的には面倒くさい国だと感じるけれど(経済的にはシンギュラリティに住みたい)、政治的にはこのぬくぬくした日和見は気持ちが良い。大学の空虚性をここまで分かっている賢い国は、日本ぐらいじゃないでしょうか?
ただ今は反省していて、あまりに快楽主義者に開き直りすぎると、かえって快楽から不自由になる体験を最近はたくさんしまして、ドゥールズも言っていますが、差異は大切だ、差異はカタストロフを生む、しかしカタストロフは危ねーから、反省が必要だ!ということで現在はYouTuberブームもYouTuberによる政治的な革命も一段落ついたわけだから、反省しているところです(笑)。
ここで反省すべきことは、シンギュラリティが徹底されるとむしろ戦後、ポストモダンが徹底されてしまうという皮肉です。
社会学には技術決定論と社会決定論があり、当たり前ですが、技術を使うのは社会の人々の意志のため、半分はむしろ社会決定論的にシンギュラリティが利用されてしまう、むしろAIがしょうもない形で利用されて古い思想、ポストモダニズムがむしろ徹底されてしまうんだという皮肉です。
ポストモダニズムは冷笑的なので退学もロンダも東大以外もOKです。
しかし、ポストモダンが厄介なのは不徹底な冷笑主義なんで、結局のところ最低限は大学を温存する、むしろモダニズムよりも形式的なスノビズムが流行るということが起きて学歴が無意味が故に学歴偏重主義が流行るというスノッブが起きてしまう。
無論、半分は技術決定論であり、パワハラしようにもリモート化したり、経済や資本家そのものはAIを前に以前よりは力を失っている面もありますが、不徹底にモダニズムが残っていく。むしろハイソや余裕として必要条件になっていく。
私はだからキュアロランバルト氏のように蓮實重彦を真似てスノビズムにあえて訳わからん文章を書いて冷笑的に論壇を維持する表層批評をあえてここでは皮肉ぬきに擁護したい(本当はtwitter芸人のキモキャラの方でなく、早稲田の真面目な学生、そして現在は編集者としてシコシコ頑張っている方を擁護したい)。
そしてベテランちが柄谷行人に影響を受けて、苦しいベテランちというキャラを捨て、青松輝としてポエマーとしてベタをやる態度そのものをあえてここでは皮肉ねきに援護したい(空虚な道化ベテランちこそアーティストとして擁護したい。)。
ただ問題なのは、二人とも蓮實重彦や柄谷行人を大きく読み間違えざるおえない時代性です。もうモダンはないから。蓮實重彦は訳わからん文章を書く茶化しを嫌い、柄谷行人は詩を嫌い極めて唯物論者とあろうとした人であり、実はキュアロランバルトは蓮實重彦アンチであり、ベテランちは柄谷行人アンチなのです。まあファンチかもしれませんが(似た現象に東浩紀ファンチでセックスネタや学歴コンプネタを吐露しまくるスーパーミラクル上智生という論壇をバカにした陰キャがいます)。
むしろ、時代はモダンを引きずったポストモダンではなくて、徹底的なポストモダン性、戦後的なくだらなさ、古市憲寿やにゃるらに代表されるゆとり世代的なメンタリティな気がします。
楽できるから、詩でSFCへ入ったんだと言い放つ古市憲寿の態度そのものは十分に挑発的です。
むしろ、ゆとり世代の手を抜いた態度そのものの攻撃性を見抜かないとならない。彼らはひっそりと国家や大学といった近代フレームを政治運動としてなくそうとしているのです。
こういった時代に実存を埋めたり、考える糧や生きる意味を与えてくれる大きな物語が改めてシンギュラリティなのです。
シンギュラリティは今当に起きていて、YouTuberやGAFAMといった矮小な現実論という名の粗野に無視されていますが、現在こそ特に有効です。
そして、私はシンギュラリティの次を考えていて、AR,拡張現実、AIの発達が止まった先の、新しい人間中心主義について考えていて、その今における最高傑作のサンプルの1つが坂口章さんでした。
しかし、アーティストになれない人間たちも社会や共同体を作っていまして、私の最近の課題はアーティストになれないなりたくもない社会がシンギュラリティへ舵を切るために具体的にどう社会と接点を私やシンギュラリストたちは結ぶかという話です。
まあ1つはAI経済学、個性経済学だと思っていて、政治の次に世俗なのは、経済学だからです。AIをAIするAIで情報デザインというジャンルを描いたので後はそちらを閲覧ください。もしかすると、ここからはAIをAIするAIで描いた話を話していくかもしれません。