ジル・ドゥールズが読めないだめなオレがだめなのか、それともジル・ドゥールズに屈しちゃうメディア環境がだめなのか?〜『差異と反復』感想〜

 

 当たり前の話だが、目の前に1流の思想家とやらがいて、もし仮に意思疎通が通用したら、彼に彼女に僕らは圧倒されるだろう。

 しかし、彼にその1流の思想家が年上の外国人だとしたら、そして、専門ジャンルが異なる場合には、どうしたものか?

 ジル・ドゥールズ『差異と反復』を読んで思ったのは、複雑な感情だ。

 私はそもそも哲学に興味がない。

 なぜなら、哲学は西洋人特有の思考や文化だと思っており、日本人では不可能、あるいは、日本人として哲学をやるなら思想という形でしかあるいは批評、今だったらテクノロジーに対する理解者という形をとるしかないと思うからだ。

 私はドゥールズのしっかりした読者でないし、哲学学科でもないのだから、深い関心があるわけではない。

 批評と臨床やインタビュー集、アンチ・エディプスぐらいしか確か読んでないぐらいで、日本の解説者の浅田彰のほうが賢いし使えるし合っていると思うぐらいに野蛮な日本人性を抱えている。

 

 しかし、ジル・ドゥールズ本人が嫌いではないから、差異と反復を今更読んだところ、いろんな意味で腰が抜けてしまった。

 まず文章がアンチ・エディプス(オイディプス)より難しすぎて抽象的すぎて、またフランス語?訛りで論旨を追えても、あまりに抽象的すぎて理解しても咀嚼するのが困難ということだ。

 こんなに細かく考えすぎたら効率も悪いし古い人だから仕方がないが、鬱病になるだろ、というぐらい細かく良くも悪くも実存的な論理学という感じでエクリチュール、感性が光る表現を連投しながら、あくまでも細かいロジックをあまりに抽象的に話しているし、哲学の専門用語や哲学者がばんばんなんの説明もなく出てくるのでこれはもはや哲学の本ではなく、哲学の難解な講義録として良くも悪くもな感じだった。

 ライプニッツやニーチェ、スピノザを読んだことはあるが、それらに関する哲学史的な解釈なのに、本家より大分難しいドゥールズのパズルという感じになっている。

 失礼な言い方になるが、このジル・ドゥールズの熱い細かすぎる文章は私も何度も言われたから言いたくないが、病人の文章であり、良くも悪くもここまで頭が良いのか?それとも本当に失礼な言い方になるが、ジル・ドゥールズ本人はポストモダンという近代を冷笑したり言語学としては論破したものの、本質的には乗り越えられないという限界を感じていたのかもしれない。

 これは今でも意見は変わらないが、そして野蛮でバカがバレているかもしれないが、フーコーやデリダはつまらないし、価値はあまりないと思う。

 監獄の誕生と言われてもマジで当たり前やろしか思わないし、言葉と物はあまりにうだうだと文系のくせになんか統計学的に実証学をピケティみたいにやって(ピケティは経済学だからまだ読めたがフーコーは観念的なのに統計学、実証学の細かさ)、本当に当たり前のこと、歴史はフィクションだよねをなんで1200ページ?ぐらいで説明するんだよと本当にガッカリされた。

 デリダもただひたすら防衛的な範囲でだけ言葉遊びしたりと思ったら、ユダヤ人を助けよう!と政治活動を素朴にしたりネトウヨ臭くて、ついていけない。

 そんな中、確かにドゥールズは全うに哲学をやっている真摯な他者として信用できる。

 

 がゆえに、哲学をやっているなどとおいそれとクチには出せないし、哲学そのものには、ひろゆきホリエモン動画や宇野常寛のサブカルチャー批評をスナック菓子を食べながら聴いていた地頭しか回らない私には関心が持てない、やはり哲学には。

 

 なぜなら、哲学は全体性を抱え過ぎだし、非大衆的で、自殺だったり海外のアートとかの文脈を十分に抱えたものという印象をやはりジル・ドゥールズの文体や思考スタイルから感じざるおえないからだ。

 大衆的で申し訳ないが、アンチ・エディプスの方が面白い。

 

 しかし、これは私が小説を読めないし、文学が本当に分からないという現れであり、ジル・ドゥールズのうねりは失礼な言い方かもしれないが、日本の哲学者、柄谷行人にソックリである。

 恥ずかしい話だが、実は柄谷行人をちゃんと読めるようになったのは最近で、彼のお笑い的な目線、ギャグを入れながら語る対談などは鋭いなと思っても、いちいち内気で病気を感じる彼の単著は探求シリーズ以外はほとんど読めなかった。

 ただ、柄谷行人はずっと積読していて、ここ最近、根幹的に鬱病になることがあり、そのときに柄谷行人を読んだら、スッキリしたし、早口のスタイルを治すのに意識レベルでだけ柄谷行人は役に立った。

 なんだかよく分からないうちに思想家キャラとしてデビュー?してしまった私だが(今でも本当に論壇はよく分からない)、今私は遅い文学・哲学のお勉強をしているのかもしれない。

 正直言って、失礼な言い方になるが、ジル・ドゥールズ的な大きな風呂敷を広げた問いを問いても、web Writingに直接役に立たないし、情報処理をあげるどころか、うねる文体に一抹の老害性、限界を本当に失礼ながら感じざるおえない。    

 しかし、ジル・ドゥールズの貫禄や勢いは本物である。時代的に仮に失礼ながらオワコンや限界があっても本物である。仮に本物じゃないとしても無視できないような分析哲学的な細かさと観念哲学的な曖昧さが同時にくるある種の過剰さ、病気、病気を無視しない病気な病気の治し方を柄谷行人同様に感じる。むしろ、こういった文豪は私は考えたくないが、早く死にたがっているのかもしれない。私には飛び降り自殺する感覚がよく分からない。もちろん呼吸が苦しかったらしいが、ひっそりと死ねる道を選べなかったのだろうか?  

 ジル・ドゥールズの死自体は申し訳ないが、しょうもない。問題は良くも悪くも千葉雅也といった日本の哲学研究者などがドゥールズ!と言ったり、日本のアーティスト木澤佐登志などがドゥールズ…と言って文芸をヘラヘラと言ったときにネガティブにしょうもないこと言っていて大丈夫か?文学は(笑)哲学は(笑)と思うことが多く、うんざりする、

 しかし、ジル・ドゥールズの文章は本物の悩みや考え抜いた文章である。文章が上手い。そして、読みづらくて苦しい(笑)。けど、できる限り読まないとまずいと感じるなにかはある。その点、フーコー&デリダは中途半端にアクティビストな話題へ走るから、文章がつまらないし、フーコードゥールズデリダと並べると本当にバカバカしく、ポストモダンはモダンを超越してないでしょという紋切り型の批判を抱える、

 結論 ドゥールズを見習って、真面目に文学や哲学してくださいよ、マジで💢

   

 

 

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