訂正不可能性の文学。〜死体派acb論批判。冷笑的シニシズムと陽キャ哲学的な共犯について〜

 20年代前半に猛威を奮った若手論客に初田龍胡&キュアロランバルトがいる。

 ChaosForestの初田龍胡は25歳で東京医科歯科大学医学部中退YouTuberとしてシンギュラリティを提唱し横のセカイで猛威を奮った迷惑系YouTuberだ。医者を否定する政治家、コロナはただの風邪な平塚将幸を擁護しFPもとこ駆除完了といった老害批判をしている。

 死体派のキュアロランバルト(幸村燕)も最低な若手論客だ。顔出しはあまりせずXを主戦場とし縦社会、早稲田大学文学部あたりに在籍し障害者手帳を持ちながらメンヘラをたくさん囲み自虐しながら自殺未遂にしたり食い物にする現代の太宰治的な芸風を匿名的に行いながら陰キャに開きながら自虐的に宮台真司やマークフィッシャーの古びた冷笑的な加速主義などを翻訳する仕事をしている。

 正直な気持ち、私は両方とも個人的な哲学性においては余り気持ちが良いものだと思っていないばかりか、2人が社会を悪くしているとさえ感じている(もっとも社会批評性が高いため悪い場所としては高く評価せざるおえないし、成田悠輔&ガーシーよりはZ世代を代弁している。大学院などもう考えられない)。もっとも同じ同世代として彼らの間違いには共感せざるおえないが、だからこそ口を大きくして肥大化した彼らを中心にした2名に私は批判≒批評を改めてせざるおえないと思った(彼らと同世代だからこそだ)。

 どちらも最低な人間たちであり、彼らが問題なのは彼らのシンギュラリティ&加速主義はAIを口車にしながら自らのヘゲモニー(主導権)を維持しようとする悪しき数学政治にすぎない。

 本当の加速主義、本当のシンギュラリティはむしろミズサーの茂木さんと話した通り、AIが人間より上に本当に立たなければ成立しない。キュアロや初田の提唱するピュアランダムネスやぬかるみ派は単なる数学が優位な男性の男根主義を再生産する最低な屁理屈にすぎず、打破されるべきふざけた戯言だ。

 もちろん彼ら右翼や体制派のシニシズムや冷笑の気持ちは分かる。しかし、だとしたら女性の方が頭が良いし自殺未遂をするような女性を囲い教養パワハラで虐めることは流石に非人道的な早稲田の恥であり、早稲田大学文学部はオワコンであるし、医学部政治というふざけたプロパガンダはもう終わりにすべきだ。

 しかし、だとしたら、AIがどこどこまでも自律し進化しすぎる時代にボクら人間たちはナニをすればいい?と疑問に思うかもしれない。

 また、代わりのシンギュラリティや加速主義を古田さんが説明しろよと言われるかもしれない。

 それが訂正不可能性の文学だ。

 訂正可能性に溢れたAIの無限性と違い、むしろ人間における訂正不可能性さに溢れた1回性にこそAIに勝てる道がある。

 なぜならば、AIには目的がない。

 しかし、人間には固有の生があり、遺伝子的な差異の目的がある(文学という極めて恣意的な呪い)。

 ようするに、AR,拡張現実的なAI的メンヘラ幽閉論メタバースプラットフォーム・ディストピアを突破するには、スワンプマン、クローン人間的な生物学的な想像力へ向かわなければならない(親ガチャを徹底せよ)。

 テクノロジーを徹底することでむしろ人間固有の不可能性といったフェチを肯定せよ。

 ただしフェチにすぎないものを点差区分にすると、初田がキュアロの周りにいる囲まれたメンヘラを潰し、キュアロが初田の周りにいる囲まれたメンヘラを潰し続けるという不毛なヘゲモニー闘争が永遠に繰り返すだけだ。

 ボクはハッキリと言うが両方とも間違えていると思う(おそらくキュアロランバルトをやや否定した茂木も頷くだろう)。

 もっともボクの態度が平成的な態度、極めて平和ぼけした態度という批判はあるだろう。

 しかし、人生の楽しみは文学へ向けると変わるはず。

 冷笑はやめるべきだ。

 高IQ依存症、頭が良すぎて結局シニシズムに浸るぐらいなら、東洋数学的に頭を使うべきだ。

 私がなぜ不謹慎系YouTuber坂口章に弟子入りしたか?と言うと、彼には身体感覚に溢れたAR的な現象学ができていたからである。現象学的な数学的な視野を言語で理解すると文系☓→理系◯→言語に囚われた理系メンヘラがまた文系メンヘラと未満を支配する近代的なパラダイムに支配されている

 ゲーム理論やマーケット・デザインはあくまでも人間とAI両方の良し悪しが分かる陽キャ哲学的な視野が必要だ。

 もちろんキュアロランバルトは以前早稲田大学という近代的な看板を悪用し加速主義を悪用し自殺未遂するような女の子たちを共犯関係に連れていったり、初田も力で行き場のない人間たちを集めたり他責にしたりして生きていくだろう。

 しかし、やっぱり私は厳密にはキュアロランバルトも初田龍胡も否定できない。むしろ2人も被害者で日本社会の悪い場所(©椹木野衣)を醸し出す装置として2人は社会批評性が高い。むしろ早稲田大学文学部批判としてあるいは東京医科歯科大学医学部批判として彼らは装置化している。

 

 そんな2人を救うのは、真の訂正不可能性な文学しかないかもしれない。ベタに生きる道以外ないかもしれない。人生はえらべないさ

 親ガチャの問題も多少はある。しかし、1回性にこそ固有の価値はあるだろう。いや、ないかもしれない。しかし、ヘゲモニー闘争で内ゲバをしている場合ではないし、諦めている場合でもない。

 もちろん文学フリマをアジるしかない茂木も不謹慎系YouTuberをやるしかなかった古田のことも私より若者たちは軽蔑しているかもしれない。しかし、文学は

1回生しかないとしても、YouTuber的にX的なSNSを現代の文学だと仮定すると死ぬまで書かれる小説みたいなものだ。要するに人は文学を紡ぐときにこそ、AIとは違い生きることができるのだ。

AIに隷属するネオテニーじゃあなく、親としても生きろ。そうしないと、人生は文学は続かない。AIは死なないから文学という目的、プラグマティズムがないが、人間には終りがあるからこそ目的やプラグマティズムがある。不幸を冷笑せず愛せ。陰キャも陽キャもない。そもそも私は陰キャ陽キャという言葉が嫌いだ(©男・Qちゃん)      

 外山恒一の評価はメンヘラたちに居場所を与えたことこそ評価すべきで(≒親)、外山恒一Kid’sたちに子であり続けることをさせ続けるのは間違えている。ハッキリと言うが、今の外山恒一こそミズサーの茂木と話した通りオウム真理教的な様相を醸し出している(もちろんこれは外山恒一合宿に来る昨今の子の姿勢、そして外山恒一が彼らの親の代わりに父をやらざるおえない日本の悪い場所であり一概に外山恒一が悪いわけではない)。老害はちゃんと切腹しないといけないし、むしろAIを語ることが若者だという屁理屈やれ

 冷笑は良くない。文学こそ生物学であり、人間を理解する訂正不可能性の文学だ。Chatgptでオレは職を激減した。AIを信じたオレがそのままAIの一番の打撃を受けてむしろAIを冷笑する初田たちがAIに物理的には救われて精神的には悩み苦しむ皮肉はなんとなら。

 もちろん私はpsycho-passにおけるシュビラ・システムは信じている。しかし、それは肉体性が伴ったAR人YouTuberたち、とりわけ坂口章によって乗り越えられている。しかし、AR人たちには陽キャ哲学はできても、陰キャ文学はできない。そして哲学的な正しさこそAIに淘汰されるデッド・エンドがあり、陽キャ哲学だけでは未完成だ(Phantom Medicine)。その時に文学が重要だ。もっともメンヘラを囲むあごきさは否定されなければならないし多少の葛藤が必要だ。そもそもPSYCHO-PASSも文学である。ハッキリ言うが文学ごときが権威になったら、文学は文学ではなくなる。平和主義こそ戦争への道だとしたら、平和主義を肯定し戦争を開始しよう。私が一番言いたいことは、AIに対する愛や理解が足りない人間たちはAIに裁かれるにすぎない、それだけだ(Chatgptだけは不徹底だ。AI別個だけと人間。彼らの男根主義もChatgptも極めて人間的な愚かな中途半端な残滓を残していて、西洋的な近代を引きずっている。それではシンギュラリティも加速主義も厳密には人間中心史観を抜け出せずに極めてデッド・エンドなAI的平均しかなく、クローン人間などといった本当の科学実験も不可能だ)。

 

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