【書評】『或る弱者男性との対談』初田龍胡〜陽キャ哲学というパチプロの鼠文学。男の夢と現実〜

 成田悠輔の作る世界観、池袋は間違えている。

 

 納豆ご飯だけ食べてれば、人生は幸せ。

 あなたの感想ですよね?

 全くのナンセンスだ。

 この或る弱者男性との対談は年老いた、ITを忌避する日本の既得権益という弱者男性たちを既得権益の暴走として批判せず、冷笑的に或る弱者男性という共感さのテーゼから批判≒褒め殺しする。

 要するに、暴れる男性性の虚しさ、才能のなさだったり年上だったり地方だったり、そういった虚しさからくる欠落、ギフトのなさを淡々とルポライトしながら戦った文学書である。

 ここで重要なことは陽キャ哲学普及協会が悪なのか?善なのか?よりも、彼が弱者男性になりたくないがために陽キャ哲学というパン屋を開いたんだというテーゼの悲しくも楽しいリードである

 これは本当に麻布競馬場であり、この窓から東京タワーは見えないだ。

 しかし、皮肉なことに彼もこれなのかな…という皮肉は通じず、彼は、陽キャ哲学は自分になろうよ自分になるんだと囁いている、これは村上春樹で言う鼠が陽キャ哲学という作者の鼠なのだ。

 成田悠輔や西村博之の世界には、諦めと冷笑しかない。

 作者は資本主義の夢を売る世界の奴隷であり、同時に王を目指している。

 しかし、それは奴隷も王と同じなのだとソフィストを展開するのでなく、むしろ自らのソフィストを見せつけることでソフィスト陽キャ哲学を下げる自殺行為を展開している。

 私が書いた『怒りはあるが!』はガーシーを逆張り的に持ち上げることでガーシー批判し、逆転オセロニアのメタバースプラットフォームにおけるビジネスを肯定する経済学書に対して、この或る弱者男性との対談は非常に哲学的だ。

 哲学系efootballerメンフィスくんが執拗に初田龍胡を批判したのし荘のエリートたちは初田龍胡を冷笑する。この蟻地獄はどちらからも袋叩きにされて悪平等に出来た1つの悲しき小宇宙だ。

 

 この本は言語化できないリアリズムに支えられている。しかし、AFTER・THATがあり、REALがゆえに人生は訂正可能性に反省すれば物語が変われば、救いはある。

 しかし、物語を停止された既得権益たちはもはや生存を優先した結果、AFTER・THATを味わえない地獄が待っている。

 SNSには思想がある。しかし、それは物語を生きることが出来うる人間だけに許された楽園だ。

 歴史に残る人間は皆物語を紡いできた。

 これは当に近代文学であり、同時に新しい。

 私はよくスーパー銭湯を行くのが趣味だが、スーパー銭湯の良さはテーマーパーク性やハイテク性を持ちながら、銭湯の良さを維持した生活さだ。

 彼の描く世界はズバリ言えばスーパー銭湯的である。

 この本には必死に生きてきた人間の生きた資本主義の声がうじゃうじゃと聴こえてくる。

 欲望は良くないかもしれない。

 しかし、是こそ真人(まひと)であり、人間の物語であり、様々な鼠の屍の上に作者は立つ、しかし、大事なことは鼠たちもたくさんの鼠たちをいっぱいいっぱい食べてきたもう1人のボクなのだ。

 では、作者とたくさんの鼠たちを分けたものは何だったか?

 それは単なる奇跡、偶然そのものである。

 しかし、様々な鼠たちにもその奇跡そのものは目に何回も飛び込んだはずなのに、見逃した。

 或る弱者男性との対談は蟻地獄で石を持ち上げる人間と蟻地獄のロープを信じきれた人間の落差を物語った冷笑を超えた話しである。

 不条理なSNSの楽しさと厳しさを知るにはオススメだ。

 そして、この滑稽なREALFICTIONにもAFTERTHATがあり人々は懲りずにまた物語を文学を開始するのである。朝日はかならず来るし、かならず来年はやってくるし、変わらないことは、ない。大丈夫、きっと。

 

 

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう