ネオ幕府の相川っていうバカを持ち上げると、FPもとこというTV的なノリが浮上する構造がある。なぜならば、どちらも政治家で都心を中心にした保守層がネオ幕府で地方を中心に考えられているのが、FPもとこだからだ。
ここで厄介なのは、ネオ幕府の相川は共産主義者に見せた右派に見せた単なる資本主義者にすぎないのだ。東京やリアルで出会わないとダメだよでその古さが皮肉なことに現代だと体制的かつ資本主義的なマイルドヤンキー的な既得権益性を発揮している。
相川さんは悪そのもの。藍原タユ&初田龍胡はだから間違えている。東京を中心にしたりリアルで出会わないとダメだよだとかお金を奢ってほしいだとか、全部がFPもとこと対立しているがゆえに、ソックリなのだ。ネオ幕府・相川とFPもとこは同じだということを徹底的にしみ込ませないとFPもとこは埋葬できないのだ(もっとも早稲田やミズサーに甘かった私の失態もあるが。徹底的に鬼になり2024からは奴ら偽善左翼を切らなければならない)。
ようするに、思想は真逆でも同じ政治という点でネオ幕府の相川という詭弁家を取り上げるとFPもとこももれなくきてしまう構造があるのだ(美容は宗教よろしく大学の系から新しさを語る点で美容整形科医たかぴすやネオ幕府もソフィストである)。
えらいてんちょうと立花孝志はイデオローグの対立で喧嘩したけれど、結局のところ、どちらも同じ穴のむぐらのバカだよねという構造がある。
今回出したオレの怒りがないが!はFPもとこの能動経済を皮肉る形で書いた本だ。これはガーシー的に書いているように見えて、めちゃくちゃシンギュラティの話ばかりだ(本は破れ!で書いた冷笑的なARという話は抑えて、ただ淡々とシンギュラティだけに絞って書いた。また逆転オセロニアという古い話をあえてとりあげた)。
相川さんはクチではAIが人間の知能指数を超えるシンギュラティは起きていないと断言する割には、PROFILEやYouTubeでは加速主義だと冷笑的にほざく、最低な反知性主義の老害、あるいは知能指数の低いことを恥じない悪なのだ。
怒りはないんだけど、まったく。相川さんの被害者側ではあまりないから。彼が落ちてもいいから東京の都知事選に出るよというエリートシズムそのものが、オモコロ、オモコロ、ギャグだよ、ギャグだよという冷笑的な東京の体制的なイデオローグなのだ。偽善左翼的な平和主義者と謳いながら東京的な酒文化の昭和を維持する既得権益的な政治である。
個性経済学と能動経済は真逆だ。
個性経済学はシンギュラティ、AIや統計学、Vtuberなどが経済学の価値観を変えるんだという楽観的に細かい話をした理系的な話だ。
しかし、能動経済は新しい。ルサンチマン経済であり、悲観的でガーシー的だ。政治的に怒れる状況の上でどう政治活動するか?っていうことを考慮した話が、この能動経済である。むしろFPもとこの理屈をルサンチマン経済学であると理論の方から褒め殺しすることこそFPもとこの攻略法だ。
また、オレは個性経済学という言葉を本は破れ!で提唱したが、浅いことを言っているなぁって思ったから、そんなに深く取り上げなかった。なぜならば、六本木の落合陽一、右翼、資本家が書いている経済だから、あまり革命的ではないな、保身的だなと思って、そこまで取り上げなかったわけ。落合陽一デジタルネイチャーは経済による弱者救済の本ではない。
あくまでも、ITが社会を変えていくっていう話や近代、オープンソース、対話がAIになって便利になる話、言葉がなくなり現象的になるみたいな強者政治的な内容の方が面白いなと思った。
そして、落合陽一の本からアート的な衝動を感じて、ARTの方向の話をしたいなと思って、個性経済学っていうところはそこまで重要ではなかった。というよりも、冷笑的に書いたのが、この個性経済学というタームだ。
しかし、ここ最近、YouTubeブームが終わって、社会を良くしたい社会を良くしたいっていう危機感が以前よりも増している兆しに書いたのがこの2023年12月に出した怒りがないが!だ。
本は破れ!では個性経済学はそこまで重要ではない。時代の問題もある。世代論もある。落合陽一の本からは余り着想がなかった、さっきから言っている通り、資本家の彼の本から経済学のポジティブさが余り感じなかったからだ。
今年は本当に最悪な年だった。
既得権益やそれに怒る女性、弱者男性が暴走した時代だったと思う。
ARTが法律になるーっていう長期的な話、即効性のない哲学には興味がないよっていうことで2023年には本は破れ!に書かれた射程距離の高い話は無視されてしまった。残念なことに(もっとも美が法律になるという発想そのものがソフィスト的で限界が半分はあったかもしれない)。
底辺や底辺を虐める既得権益を虐めるような成田悠輔よろしく反シンギュラティの人々へ向けて、個性経済学2、やっと書けた、それが怒りがないが!だ。
これはガーシー的な文体でガーシーが求められた社会を皮肉っただけで、中身は使える要点が淡々と書かれているだけだ。シンギュラティ時代には、人間を信用するなや課金の話とかだ。
もっとも個性経済学っていう言葉も古くて、ダメだよっていう。古いよ。
限界がある。
どっこかの哲学者と同じで詭弁なんだよね。起きるよねって思って書いただけで、個性経済学という現象をそんなにポジティブに肯定することはできなかった、個人的に。その後に陽キャ哲学や能動経済といったものが台頭してきて、ああ…大学の学問はやっぱり終わったんだと確信に至ったのだ。彼らが大学の言葉で哲学や経済学を語れば語るほど大学の学問がビジネスやGAFAMの時代においていらないものだということを逆説的に彼ら二人が証明してしまっている。
もっともガーシーのおかげで、この怒りがないが!は書けた(暴露経済と言ってしまったらダメなのだ。あくまでも日本の体制を壊すことそのものが儲かるということは政治運動だからだ)。
ようするに、経済学の物言い、理屈に逃げる物言いそのものが体制的であるということに気づかないといけない。また、ビジネスのミクロ商売から逃げる口実にすぎないのだ、経済学という物言いそのものが。そこにガーシーという一時期ボロ儲けしていた暴露系YouTuberを逆張り的に肯定することで新しい経済活動をここに定義することができた。これが、怒りはないが!だ。
話をまとめよう。
1,能動経済はルサンチマン政治である。
2,経済学という学問そのものが体制的である。
3,現代は、経済学ではなく淡々とITやビジネスだよと理解すべきだ。