ドストエフスキーは山上徹也に乗り越えた文学
ドストエフスキーは読む価値がない.
文学はしょせん家族を愛そうという当たり前に帰着する右翼的な問題だからだ.
SPY・FAMILYやチェンソーマン,ぼっち・ざ・ろっく!,どれも人と人の関係性を扱う文学だとしたら文学は家族の関係性の域を出た話しはない.
陽キャになれば済む話しだ.
だから,漫画はあくまでも家族の具体化にすぎず,最大公約数を狙うならSPY・FAMILYで構わない.
ドストエフスキーもギリギリにカロゾーマフの兄弟以外は無価値だろう.
もはやアニメや漫画に引用され尽くしているし,安倍晋三を山上徹也が暗殺した日本,ガーシーが芸能人を曝露した日本において意味はない.
現実が文学をアニメを追い越したのだ.
文学は必要ない.
文学に意味ない.
文学は不要かも.
そういう時代に文学をやろうと思ったらChatGPTがある.
稲葉くんが余りに罪と罰に出てくる主人公にFPもとこが余りに罪と罰に出てくる主人公に暗殺される金貸しの老婆に似ているからといって同じことは起きない.
むしろ文学が読めない二人は違う方向にむしろテクノロジーの世界へ加速してゆく.
むしろ呪術廻戦的な想像力の現実は体制側としてメタバースプラットフォームに隷属する動物農場が現実だ.
SFは冷笑だが,冷笑的な体制側がSFを体制を維持するために実装しメタバースプラットフォームへ独裁し自閉する.
〜動物農場をメタバースプラットフォームとして読み替える試み〜
にじさんじはメタバースプラットフォームの動物農場の成功例だ.
今後にじさんじの2軍として老若男女の体制側のポスト平成組たちはメタバースプラットフォームのbotとして生きてゆくことになる.
コノ手の現象を貧者のVRと落合陽一は揶揄したが,実態はむしろ真逆で生きていることを兵器にした成田悠輔が落合陽一やシンギュラリティを冷笑する有り様だ.
動物農場において力こそ正義なホッブスのリヴァイアサンが行使される.
〜成田悠輔『22世紀の民主主義』は素晴らしい〜
東京大学の人間として可視化できる最低限の情報処理を持つ人間たちに仕事を安定的に与えて,それをDXと評してしまえばいい.
東京大学に見事合格しITと評してガーシーの暴露を冷笑し続け,無意味に生き続けることがこれからの日本だ.
むしろ,ここで成田悠輔を訂正可能性として批判=批評することこそ,腹の出た成田悠輔の東大は中身がないとイジられながらやっぱり中身があるんだという大企業的な問題を再生産することに他ならない.
むしろ批判⇔批評という戦後に肥大化した冷笑や文系は捨て去るべきだ.
最低限はDXそのものしかない価値観で生きる他ない.
これからは理系が文芸だし,SNSが大学だ.
成田悠輔『22世紀の民主主義』を「人間」として肯定し,批判⇔批評の終わらない往復を終わらせ,旧態依然とした御宅の家族主義をぶち壊し,社会は存在しない真実がいつまでもありメタバースプラットフォームによりより先鋭化する現実に打ち塞がれる他意味はない.