メンヘラという言葉がめちゃくちゃに流行り定着しているだとか。
このメンヘラという言葉をよく知るようになったのは2020年のコロナ禍とYouTuberブームのときだ。
高学歴メンヘラと私は定義し高学歴なのにメンヘラぶる謎の人々を高学歴メンヘラと定義した。
あれから3年が立つが、まさか本当に高学歴メンヘラを信仰する人々がたくさんいるとは思ってもいなかった。
いや正確に言えば、高学歴メンヘラ以上に高学歴の既得権益を保持する人々である。
彼ら彼女らを信仰する人々は後を絶えない。
というか地方や女性、量になればなるほどそういう傾向に陥ることを知った。
だから、海外企業の中小企業にたまたま運良く勤められたり、不謹慎系YouTuberのART性が伝わるもんだと思っていたが、また、大学の内部にいた現実として余りに腐敗している現状では冷静にやることもないか、加速主義的な流れしかないと思うが、日本はいまだに大衆を肯定しながらも大衆に足を引っ張られて高学歴メンヘラになるのが実態だ。
その最たる例が2023年に出会った早稲田大学文学部を中心にしただめライフ愛好会やネオ幕府、ミズサーなどである(インターネットではFPもとこや稲葉、不協和音の会、藍原タユなど)。
彼ら彼女らとは余りに話しが通じず、こちらが譲歩しても、彼ら彼女らは自分たちが既得権益を信仰するがゆえに既得権益を乗り越えられないジレンマに陥っていることに気づいていない。
amebaはギャグだからamebaのノリはあえてやるもんだと思っていたが、彼ら彼女らは本気でameba的な大衆の箱庭的詐術を信じて苦しんでいるらしかった。
不謹慎系YouTuberはコロナ禍や自殺のメディア洗脳などを笑い飛ばす自由さが魅力だった。
陽キャ哲学どころではない、自由さが魅力的だ。
不謹慎系YouTuberを1番兵器として使っているのは、坂口章ぐらいだった。
陽キャ哲学もFランぼっちモザイクも悪い人々ではないが、メディアを維持する点でメディアの系から抜け出しているわけでは、ない。
人生は100年しかないとしたら、虚しくならないだろうか?
私は演劇をすることに絶えきれない。
もっとも自分が1番頭が良いとは言う気はないし大体下部構造までは、保険までは自分を拡散しまくった次第だ。
HIKAKINはバカバカしいし、しかし、HIKAKINのノリが嫌いというわけではない。
これが普通だと思うし、仮に大学を卒業したとしても、多摩美術大学→東京大学ロンダリングぐらいが限界だったと思うと、これは仕方がない。というか、森村も武蔵野美術大学も普通に高橋祭が自殺するような状態で仮に卒業しても社畜になる、あるいはそれに絶えきれる情報処理だけを持ったbotたちを上へループさせる構造だ。
また、自分の人生を少しでも楽しくしたいから、また個人的にドハマリしたから不謹慎系YouTuberにハマったし、批評系YouTuber集団を周りに配置することで苦労せずにそこそこ人々をリクルーティングしている。
ただ最近私が懸念しているのは、2023年組との衝突だ。
彼ら彼女らはこちらが譲歩しても日本語が通じないし、権威に裁かれる人ほど非常に権威的な面もあるらしい。
権威は政治であり、政治では社会は変わらない。
自民党の支持率が過去最低らしい。
ただ私も2023年にかなり譲歩してペコペコしていたが、ペコペコだけでなく、そもそもの前提を180度変えなきゃいけない気もしてきた。
世の中の人がめちゃくちゃ臆病だったり保身的であったり群れることが好きであるパーソナルもあるとはつゆほどにも思ってもいなかった。
というわけで、筑波大学だめライフ愛好会を見習って自虐芸を展開するほうがむしろ良いのか?という気もしている,
この世界線は巷で言われるオウム真理教は起きずに、サリンを撒かないオウム真理教、高度情報社会が流行るだろう.
そこに下部構造が大衆消費社会という話しになる.
1,戦後が徹底されたとにかく安全すぎる世界の島宇宙.
2,安全という既得権益をぶち壊そうと令和組が暴れる
3,緩やかに広がった危なくないオウム真理教が完成す
〈追記〉
余り考えすぎても仕方がないかもしれない。
もう考えすぎるタームの自分なりの下部構造はかなり完成しているところだから、後は余りに暇なんで(既得権益の壊れは既得権益に憧れながら既得権益を破壊したいFPもとこや早稲田の連中にかかっているからだ)女の子と遊ぶぐらいしか考えられないが、100年でしぬと思うとそれはつまらないなぁ。
下部構造を造る穴埋めの自由、不謹慎系YouTuber&批評系YouTuberはもう継続中だから、今度は上部構造を作る作業をしたいと思う。