陽キャ哲学は嫌いではない。
ただ彼の主張は支離滅裂で矛盾まみれなので、今回、超 陽キャ哲学を批評しようと思う。
まず彼の主張は私の盗作まみれだ。
または私の反論(冷笑)で作られた年上から年下へのパワハラ哲学で構成されている。
初田龍胡とやっていることは変わらない。
たとえば、露悪のファーストペンギンなどの不謹慎系YouTuber肯定論は先に私がいち早く主張しているし、統合失調症的妄想は私(えらてん)を統合失調症と冷笑しながらも利用するとこは利用するという彼の弱者男性ぷり、他人を利用しようとする老害さが透けて見えている構造の負け犬である。
〜古田更一アンチの初田龍胡信者〜
もっとも古田更一アンチの彼はマジョリティ、社会は存在する(社会は存在しないは私の主張で彼に勝手に大きく抜き取られたワード)と主張している学歴厨の初田龍胡信者である。
彼は凡庸な大衆は正しいという誰でも思いつく正論をただ振り回しているにすぎない。
そこにひろゆき的な論破術と私のアイデア、そして学術風なサピエンス全史のコピーライトを混ぜ合わせて作られたのが、彼の超陽キャ哲学である。
ゆとり世代の平和ボケしたノリのエッセイをただ自画自賛した文学の域を出ていない。
もっとも彼の超陽キャ哲学は私的な文学としては初田龍胡の批評の正当な仲間、文学としてのオルタナティヴとしては高く評価できるクレーマー文学だ。
だが、クレーマー文学は所詮、クレーマー文学にすぎない。
陽キャ哲学というお化粧を剥がしたクレーマー文学の限界は初田龍胡の医学部批評を其実褒めてしまっている体制的な系に作者本人が気づいていないことだ。
大衆や社会は存在するというフレームを振り回したり、男性がお化粧に走る以上、凡庸な高学歴が正しいんだや介護やメンヘラが思想のトレンドになるというYouTuberのなりかたを結果的に大絶賛する構造の系をぱくもとは作っている。
超陽キャ哲学は文芸評論化された患者側からの医学部YouTuber肯定論である。
問題なのは、日和見の偽善者がやんわりと日々に怒りながらカッコつけながら、結局のところ、医学部&中退という介護できるメンヘラという初田的なものの肯定に陽キャ哲学は患者側から再生産=プロレスしていることである。
〜陽キャ哲学から遠く離れて〜
1人の病人は放って置こう。
次にネオ幕府相川(37)という病人を考えてゆきたい。
彼は低学歴かつ童貞という弱者男性でありながら、唯一「東京」という権威のカードを使い政治を行う政治活動家だ。
彼は陽キャ哲学同様に病に毒されている。
ネオ幕府相川はキュアロラン・バルトという早稲田文学部卒業の編集者の信者という系を再生産している。
ちなみに、陽キャ哲学-初田龍胡、ネオ幕府相川-キュアロラン・バルトの関係性を大雑把に描いた本に柄谷行人『反文学論』がある。
文学は虚構であり、根拠もなく空洞で単なる利権がずるずるとプロレスをし続け心身をボロボロにする様を描写した。
私は柄谷行人の主張をよりゲーム理論化したというわけだ。
ようするに、「大学を卒業」あるいは「高学歴」が文学の権威における前提であり、テキストは凡庸にあたりざわりのない当たり前を描けばなんでもよいというわけだ。
当然、初田やキュアロにとって、猫、日本語の拙い循環論者の陽キャ哲学や相川は、為政者側にとって都合が良い患者、ライバルとして設置され続け、平和なゆとりが体制がヘゲモニーが維持されるということになる。
〜権威主義にどう抗うか?〜
基本的に「虐め」しかしてこないため、社会=虐めは存在するという陽キャなわけだ。
まず基本的に年上の弱者男性たちは無視すること。
アイデアをあげないこと、協力しないことだ。
盗用をできるだけして石を投げてくるのが年上の弱者男性のため、まず彼らパワハラ上司の才能ない人々の元では一切働かないことが重要になる。
次に、権威主義者の打破が重要だ。
初田龍胡という諸悪の根源をデリートすべきだ。
初田(的なもの)やキュアロラン・バルトはどこまでも利権を漁ってくるので、政治的に徹底的に機械的に干すことが大切だ。
あくまでもAI的に徹するべきだが、隣に引っ越すなどといったAIを超えた利権の拡大もしてくる。
人為的に200%初田は嘘をつく、大学は詐欺師、大学は虐めというのを機械的に回すことでどうにか白は埋まる。
最後にアクティビティストたちの必要さだ。
FPもとこや稲葉といった為政者側からも同情を誘う彼らに情報を渡してアジテーションしてゆく必要さがある。
初田がFPもとこより醜いのは覆らない。
(もっともFPもとこに興味はないが)。
こうすることで既得権益のコミュニティ支配を遮断することで、メンヘラたちと初田を箱に閉じ込めて、現実の話が始まり、彼らが発狂するように現実のスピードを加速させる必要がある(©崩壊を加速させよ)。