メリトクラシー(知能至上主義)が当たり前だと言われても、その矛盾の中で生きていても実りは感じられない。
簡単に言えば、社会構造には矛盾が至るところにあるにも関わらず、流すところだ。
それは●人と言ってもいいし、ハッキリ言えば、無意味な行為だ。
だが、大半の人々は近代社会、今の社会を疑わずに、生きている。
もっとも自分だけが幸せになるのでせいいっぱいだし、もっと言えば、社会構造の仕組みに軽く気づいても外山恒一合宿に通うのがせいぜい関の山で気づいたとしてもFPもとこ&稲葉のように初田のような人間、大きく言えば医学部YouTuberたちのような利権に攻撃されて撃ち落とされる。
これが現代のメリトクラシーの実情だ。
この地獄のようなシステムを打ち破るにはどうすればいいのか?
むしろ東京を中心にしたエリート側ほどむしろこの手の不都合な真実は守り抜こうとする。
この手をメリトクラシーと呼ぶ。
メリトクラシーを乗り越えるには、メリトクラシーそのものを撤退する他はない。
知能至上主義社会の矛盾は知能至上主義を徹底すると、頭が弱い人間は生きている価値がないという当たり前な結論が導き出される。
だとするならば、死なないために、●人者のメリトクラシストたちからは身を守らないといけないし、メリトクラシストたちをどれだけ●すか?という視野は重要である。
日常と冷笑
日常は存在しない。
冷笑も無意味な流れだ。
日常と冷笑を現状を維持したい楽したい大衆の欲求にすぎない。
しかし、それは反知性的かつ反社会的という矛盾が発生する。
社会維持と大衆の肯定の乖離は発生する。
だとするならば、社会維持のコスト圧力は払うべきだ。
なぜ数学教師が発狂しているか?
メリトクラシストの人間に教師がいる。
教師は教師足りうるためにメリトクラシーを信仰する。
しかし、それは宗教にすぎない。
宗教を批評する宗教がまた必要だ。
愛のある乙女との青春
なぜ愛が生まれるか。
それは運命だからである。
もし運命があるのならば、メリトクラシーは完全にとまではいかなくても、ポストメリトクラシーは起きるはずだろう。