具体的な詳細はぼかす。
それよりも情念=倫理。
まさかなことがおきた。
偶然、浅羽通明先生からXをfollowされて、その日偶然にも様々な人間たちとミズサーで集まる話しがあったわけで、まさかあの浅羽通明先生に会うことになるとは驚きだった。
彼の著作は池袋河合塾の浪人時代に新書の殆どは当たり前として読んでいて、予備校講師が確か勧めていて、当たり前のことを言っているし読んで当たり前だと思っていた。
一般教養史的なことのオーソドックスなわかり易さと、冷笑的に物事を俯瞰した物言いが受験勉強の延長線上として勉強として読んでいた。
そこから彼のことは忘れていて、いわゆる彼の言う「世間」に揉まれた結果、世間はひでぇ偽善と露悪に塗れていることを知る。
その後、ボクは人間である以上必ず抱えるメンヘラを治そうと不謹慎系YouTuberでストイックな身体修行に入り、批評=批判的にオウム真理教に影響を与えたテロリスト的な宗教学者・中沢新一に深い興味を持ち、彼にコンタクトをとったものの、YouTuberには興味がないと気さくなのか変なリアクションでやんわりと断られてしまった。
こう言うと、機嫌を悪くさせてしまったら、申し訳無いですが、私は有名な言論人や好きな言論人に極力会いたくない。テキストでしか判断したくない浅羽先生の著作に書かれたぶっきらぼうな教養主義者(笑)である。
だから、中沢新一先生の次に偶然、出会ってしまった浅羽通明先生というのは奇妙にも必然を感じてしまったわけだ。
なぜならば、後に賢く?なってから、当たり前の教養として浅羽通明先生の天使の王国を読んでいて、教養としても、宝島30がオウム真理教を鋭く批評した90年代のサブカル雑誌と理解していたため、浅羽先生の情念=カルチャー&倫理&文学には非常に強く90年代=強くオウム真理教の批評さがひしひしと伝わっていた。
偶然なことに、私は宝島30編集者である橘玲さんの熱心な読者で(生きるためにと、これは浅羽さんだけでなく宝島や幻冬舎周辺の文体が気持ち良い)、特に初期の投資本が好きで、あの人がいつの間にか遺伝子やら加速主義やら語るようになるなんて夢にも思ってなかった。
橘玲さんの著作80sの解説を浅羽さんが書いていて、改めて今日読み返したが、恐ろしいことに、当時はしっかり読みきれてなくて、浅羽さんがボクと同じ世界の破壊を望むオウム真理教批評家=オタク第一世代のエートス、残滓が色濃く残っていることが理解できた(図々しい話しだったら、申し訳ない)。
偶然はまだ続く。
最近の浅羽さんは私が何十年も前に新書で読んでいた当たり前の教養主義スタイルとは違って(あまりに気味悪いくらいオーソドックスすぎて沢山無意識に当たり前で読んでいた記憶がある)、自身の好きな星新一を読み愛す自らの思想の大きな野望に燃えるまでに彼はご検診なさっている。
正直、ハッキリ言うと、浅羽さんはボクに怒っているのか、ボクを小物として見ているのか、悪い意味で警戒なさっているか、よく分からない、就活に似ているが、似ていない、シュールな状況になっていた(著作に書かれているような、就活的質問をされた)。
さながらマジで星新一のショートショート(そもそもバックボーンが離れすぎていて、お互いに話せないのもある)。
で、浅羽さん自体が極端に無口だから(構わない)、ボクがベラべラ話すことになった(当たり前だが)。
具体的な内容は控えさせていただくが、一体、彼と私は何を話したか?分からない感じで、話が進んでしまった感じがある。
大雑把に言えば、古田、金を稼げ、なのだし、古田、ヤバいヤツとは縁を切れ、古田、しっかり資格勉強頑張りなさい、なのだが、ボクは彼が余りに「世間」を批評する余りに合理的すぎる態度に非常に倫理すぎる非合理さを感じた。
ボクはそこに反省をしてしまった。
ストイックな私に自惚れているわけでないが、仕事や営業で人と話すことはあっても、浅羽さんだからとかでひろゆきや成田さんを営業しようとは思わない。なんだかんだで最終的に興味や縁がある人物じゃあなければ、意味はない。
だから、私はオウム真理教に関係する中沢新一さんを最初に営業=文学したのだ。
だから、反省しているところがあるとすれば、書籍ではめちゃくちゃ見落としていた浅羽さんの情念だ。
当時は余りにオーソドックスすぎるし分かり易い教養を話していて当たり前に読まなければいけないんだ、あるいは、そういうやつを冷笑して、当たり前を教えてくれる作家というそんな浅い読みを私はしていたことに今日気づいた。
だから、終始、険悪な雰囲気で1時間話す正直に言って気持ち悪すぎる雰囲気だったが(当たり前だ。今日ミズサー行きませんか?ってうざ絡みで怒る人はいる)、一応は応援はしてくれたわけで、しかし、先程から書いている通り、合理さは非合理さであり、中沢新一=浅羽通明だったわけだ(失礼だったら申し訳ない)。
浅羽さんには1時間も話してしまい半分バレていると思うが、ボクのSNSでのミズサーへのオルグは、ARTである。
図々しい話しだが、本気でボクはマルセン・ディシャンの泉のようにバカをチャップリンのように演じながら風刺して、そのバカのふり=本は破れ!を浅羽さんに批評してもらったわけだ。
まず彼は余りに革命は良くないよと言ったし、ボクにちゃんと金を稼ぐように諭した。
マジでそうしようと本当にボクは反省した。
ただ明らかに本人には当たり前すぎて失礼だが、橘玲さんとは全く違う当たり前だが政治や思想のポテンシャルを十分持っているし、本当に当たり前だが真逆だが強い。
ボクは自らの不謹慎系YouTuber体験的なメンヘラ治し、所謂「世間」をどう超越するか?という点で図々しい話だが=中沢新一だと自らを冷笑している。
全くイデオロギーが対立し合う浅羽さんとボクだったが(本当に図々しい話しだが、資質やスタンスが真逆だ)、がゆえに、めちゃくちゃ似た空気を感じてしまい、これは皮肉ではなくて、さながら上祐とはるしにゃんが対談したいるみしなおんのような雰囲気になっていた(二人が直接似てるんでなく、話している空気が重すぎてだ)。
なるほど、これが文学か、これが、論壇か、と今日は素直に納得させられた。
ようするにボクは素直すぎる。
しかし、素直すぎるかもしれないが、本は破れ!と本は読みなさいが今日奇妙にも共通点をお互いに話せた気がした(本当に失礼な話しだが)。
ぶっちゃけ、その後のミズサーは面白かったし様々にイベントがあったが、
しょっぱなから論争状態?で、浅羽さんとバチバチに威圧し合う状況が先行パンチにあって、とんでもなかった。
ただ浅羽さんは失礼な言い方だったら申し訳ないが、FPもとこさんに似たただずまいがある。
倫理がある。
申し訳ないが、橘玲さんには倫理がないことに対する申し訳ない程度の倫理、倫理批評ぐらいしかない。
そういう点で浅羽さんは優しすぎる。
頭が良い人はやっぱりいて、ここまで文学的に考えていたんだなと今日は感慨にふけた。
それはそうで、浅羽さんの半生を振り返り、また最近の世捨て人化した仕事(星新一の思想)を見れば分かる。
彼は一時代を築き、そして、今は指し将棋を1人で打っていた。
そこに図々しく、生意気な若造が将棋やろうぜと因縁をつけてきた面も半分はあるわけだ。
ただ力量では負けられないなと勝敗に関しては本当にわからないが、一応は浅羽さんを喜ばすことが誰よりもできたと思う(少なくとも20代では)。
もとこさんが頭が良い人は病むと言っていたが、浅羽さんは必要以上に頭が良すぎる。
少なくともオウム真理教をリアルタイムで体験していない部分において、将棋は負けたと思う。
だが、ボクは本当に感謝している。
彼とボクは図々しいが、余りに真逆がゆえに、そっくりだ。
どちらもオタクであり、YouTuberであり、お互いにニコニコと話したくないし、暫く二人だけなら会わないかもしれない。
だが、書籍や作品、仕事では浅羽さんには「ゲーム理論的には」ずっと会おうと思う。
彼は大学を愛している。
彼は書籍を愛している。
彼は東京を愛している。
〈追記〉
当たり前だが、作家としては橘玲より浅羽通明さんの方が上。橘玲さんは失礼ながら批評にすぎない。だが、これは論理の問題ではなく、倫理の問題だ。
人が過剰に合理的であろうとするときは、非合理に決まっている。