基本的に人は救う必要がなくて、いかにだらだらするかが重要である。
論理構造上、人は人を救わないというのが、この日本の基本的ルールだ。
日本国がルールを破るのは構わないし、プロ弱者たちがひきしめあうは構わない。
しかし、だとするならば、弱者たちが泣いているときに一切助けないという選択肢を取ってむしろ安楽●へ推進するのは、間違えているだろうか?
否、納豆ご飯だけ食べて幸せな成田悠輔博士曰く、それは間違えていないだろう。
むしろ、寝そべり続けて、法律だけ守って、憲法的な理念は一切守らないこと。
これぞ、日本の生き方である。
日本は世俗が崩壊し、そして、大衆が崩壊し、上級国民はだらだらとしながら、猫のように惰眠を貪り、そして、下級国民はギャーギャー泣きながら、助けてぇ!と叫び、なぜだか、上級国民は叩かず、上級国民に慣れる日々を羨望するという。
そのようなプロ弱者たちは本当の弱者ではない。
確かに政治経済的には弱者だが、彼らは大衆にすぎず、反知性主義者、ある種の強者なのだ。
そのような輩を救うべきは大衆の方であり、私が救う道理は一切ないし、彼らに思想はない。
よって、弱肉強食を選ばんとする大衆たちは、弱者を見殺しにしていいんだよと結果、囁く。
私は基本的に、構造やゲーム理論を優先する。
なぜならば、言葉は簡単に嘘を言えるが、構造上の問題やゲーム理論は嘘をつかないのだから。
あるいは、法律の問題へスライドするべきだろう。
それがない政治的な詭弁は全てまやかしである。
よって、ガーシー以上に優れた政治家はいないという構造的な問題をここで露呈することになる。
もっともARTとして破滅主義が美しいと褒めるのも早計で、バカなテレビ局や俳優女優の元々のウソが単に暴露によって露呈されたにすぎない。
ガーシーは良くないんだよには戻れず、テレビや戦後中流、ゆとり世代的なノリは既に終了している。
テレビは嘘ばかりだし、戦後中流は存在しないし、ゆとり世代は幻想だ。
こんなことは茂木響平と幸村燕の対談ですらも軽く話されている一つの真実だ。
だとするならば、もう基本的に思想はいらない。
寝そべってだらだらして、崩壊が加速するのをだべりながらニコニコと見ているだけでいい。
あるいは、エリートの話は一切聞かず、エリートや大企業、東京の人間たちをどれだけ軽視するかが重要になるだろう。
もっとも、この手の崩壊の破壊の先にあるのは、ディストピアかもしれないが、今が正にディストピアであるのならば、この手の破壊をただ傍観する他はない。
これは奇をてらった冷笑ではない。
むしろ、プロ弱者の選択淘汰を加速させる素晴らしい消極的な実行案だ。
たとえば、できる限り、電車で老人に籍を譲らない。
たとえば、できる限り、育児をしている女に配慮をしない。
たとえば、できる限り、本屋を軽視してゆき、YouTubeを肯定する。
こうすることで、社会はより良く壊れた状態を可視化させながら、膿をスクーリングする決断主義的な結論の末路だ。
もっとも責任は、天皇や大衆にある。
超法規的な憲法的なエートスの問いは、このような感じになるのは仕方ない。
もっとも、そんなに基本的に難しく考えず、アドリブで、寝そべっているだけで構わない。
そこに流れがやってきて、そこにスピードがどうせどんどんと押し寄せてくる。
ただ寝ているだけでいい。
ただ、私のアレンジした寝そべり族が特殊なのは、日本の排他性と絡めていることであり、結果、成田悠輔の主張を推し進めると人を消極的にマジでスクーリングする言い訳を与えてくれるという不思議さである。
もっとも、成田悠輔の主張には、限界があり、カール・シュミット的な決断主義、暴露系YouTuberガーシー的な怒り=美が溢れるだろう。
それはそれで素晴らしいことだが、それはほとんど負け戦のため、必要がない(ガーシーのロックさは素晴らしい、それ以上に、ガーシーの結論をどう動かすか?)。
ようするに、生まれた時点で、そもそもほとんどの大衆は無理ゲーだ。
それが中流幻想の終わった日本の現実であり、日本がより治安悪化するのはこれからだろう(良かった。これで、どんどん社会が悪くなるよ。寝ているだけでw)。
やはり、大衆的な政治的話には限界があり、メンヘラを治すことに特化して、WebWritingしたり、不謹慎系YouTuberやったり、プロが作ったメタバースに引きこもったり、あらゆる個人的な成長を促す脱メンヘラ治療の方がやっぱり希望がある。
国民国家に限界がある以上、今地味に流行っている陽キャ哲学的な偽善の希望こそが、このような絶望を振りまいている限界はあるだろう。
だからこそ、理解する人間たちを限定させた個人革命である『本は破れ!』の方が、社会へ訴えない分、まだ良い面もあるだろう。
もっとも、あの頃よりも社会全体が貧しくなったり悪くなっているのだから、全体のパイを増やそうとする陽キャ哲学的なものが流行るのは仕方ない。
ただ、あくまでも、全体のパイを広げるベーシック・ソート的な発想だと、結局のところ、この循環している無理ゲー的な系は抜け出すことは不可能だろう。
やっぱりプロ弱者集団は切り捨てて、日本のおかしさをより加速させて、個人間が脱メンヘラをして、思想論壇の系からズレることこそが重要だと思う。
〈追記〉
もっとも、そんなに基本的に難しく考えず、アドリブで、寝そべっているだけで構わない(東大だめライフ愛好会の運動を軽視することはできない。むしろ、ブルジョワかもしれないけども、より重要なことはいかに彼がたくさんの人間たちを●に追いやっているかを再確認するような社会設計のdesignだろう)。
再三言うが、寝そべっている間に、アイデアが湧いたり、情勢が変わるだろう。
その都度、そこでやれる範囲の努力を費やせばよろしい。
もっとも民主的であったり大衆たちは没落し、スクーリングされることは必然だが、これは仕方がない。
なぜならば、相川が救うらしいからだ。
素晴らしい。これは冷笑ではない。
むしろ陽キャ哲学賛歌である。
口先だけで誤魔化す相川になるぐらいなら、ミズサーでも言ったが、ボクはぱくさんより陰キャです、いっそできませんと言うほうが丁寧だ。
陽キャ哲学の限界までの大衆救済をむしろ応援しているぐらいだ。素晴らしい。
ただ自分がやれることとして、やるべきは露悪だからこそ、客観的にこの手のプロ弱者批判は言わぜるおえないし、ようするに、社会は存在しないのだ。
〈追記2〉
超 陽キャ哲学を読むと、オタクのセカイ系文学が社会は存在しないという個人主義を作ったと書かれているが、ちょっとボクの社会は存在しない論はいや大きく違う。
ピロキのセカイ系解釈は確かに権威主義の逃げだ。
ただ、ボクの社会は存在しないは、もっとより工学的で鋭利な歯車に人が挟まって交通事故になろうとも、それはAIより下の人間がやられただけだというような、パラダイムの違う人間を人間だと配慮しないAI法的な視野がある。
だから、ちゃんと論理構造上、テック法的に守ることさえすればいいんだというのが、この社会は存在しないである。
テック化社会に適応しない大企業&大衆&大人は単にゾーリング対象だし、人間ではないため、それは工学的なシステム淘汰にどれだけ耐えれるか?を行っていることになる。
もっとも、ChatGPT自体も利権で、揉めて中止になったりするのが、今の社会のくだらなさ、破滅主義である。
〈追記3〉
だらだらと暮らしていいんだよというのは、分かるけども、それでは退屈だ。
この火事場をずっと見ていたいという気持ちがあるのも、半分は本音である。
モザイクくんの新刊に『現代アニメ評論』があるが、これは月ノ美兎を超えていて、いかに弱者男性たちがウジャウジャとたくさんいるか?を可視化させてしまっていて、恐ろしい。
ただその恐ろしさを眺めることで、絶望することで、むしろその絶望から希望が見えてくるのも確かだ。