中央大学にリーダーや文化的アダーアダプターが多い気がする。
平均的なところにリーダーが中心する共産主義的なエリートの誕生ということかもしれない。
そう思うと美大出身のボクもある意味で平均的なリーダーとして祭り上げられている傾向を感じる。
メリトクラシー、知能至上主義を乗り越えるには、むしろメリトクラシーの徹底が大事かもしれない。
むしろ、メリトクラシーの問題は東京大学が偉いではなくて、かのように情報処理の偏差が生まれてしまうかである。
ボクは耳存在ならぬ耳から意味を抜き取る能力が低いらしく、リスニングは不可能な点でリスニングを要求する東京大学からは明らかに差別されている。
要するにメリトクラシーの問題はむしろ中央の大学、中央大学などをリーダーにすることで起きる悲劇であり、結局のところ最低限のメリトクラシーは残ることを示唆しているのだ。
ようは、平均的なリーダーは必要悪として必要らしい。
しかし、リスニングvs耳が聞こえないはどうか?
極論を振りかざせば、盲目は東大に入れないのか?
あるいは、東大生は盲目になれるのか?
ふざけてはいなく、かのようにペーパーテストという制度は科学的に考えて明らかに矛盾がある。
もちろん半分は戯言、言葉遊びだし、どこまでもメリトクラシーの定義にするか?は果てがないだろう。
平均的なエリートの先にももしかしたら、差別はあるかもしれない。
しかし、そこまで差別を考えると、差別は言葉遊びに収斂する。
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よって、極めてART的な衝動や思いが重要になる。=言葉遊び。