上野千鶴子という東京の大学の典型的なフェミニストがぼっちでいいじゃんと言いながら、裏ではイチャイチャ結婚していたことが判明したのは周知の事実だ。
上野千鶴子は「上野千鶴子」を演じているに過ぎず、パンとサーカス、弱者女性たちを統計的に食い物にして情報商材を売りながらムシャムシャと自らは恋にるんるんしていたという。
しかし、これは頭を使えば、分かる話。
同じ社会学者である刺されて不倫もした宮台真司が某有名なフェミニストは穴モテで当時は有名だったと言っていた気がする(完全に上野千鶴子と断定しない)。
当時の某著名なフェミニズム社会学者は著名なフェミニストになる前は穴モテを繰り返していたドールだったと。
そう、ようするに、女は生まれたときからメンヘラ、あるいは、文学的、政治的、詐術的な面はあるかもしれない。
言っておくが、ヒステリーにいちいち興味がない。
ただここでなぜ女性をわざわざ語るかと言えば、男のヒステリーに興味を持てないからだ。
男のヒステリーがネトウヨやネトサヨをもたらし、加減を超えると、村々した男の娘や女装へ変貌を遂げる。
その錯乱した姿がりゅうちぇるだ。
なにもりゅうちぇるを否定したいわけではない。
ただし、同性愛者でありながら結婚し子供を作り自殺は、明らかな矛盾であり、可哀想だが、単にメンヘラがなんでもよく様々に自分探しをした結果、けったいなことに!自殺をしてしまった。
ここで問題となるのは、メンヘラというワードである。
戦前までは国民国家などといった大きな物語が信じられていたが、現在では第二次世界大戦も終わり、宗教を否定した大きな物語である近代的な国民国家というリアリティすらも虚構と化している。
信じられない、いや信じられるが、無理がきている。
その1つのメンヘラ的外傷に医学部YouTuberブーム/Vtuberブームがある。
医学部こそがかっちりした大きな物語なんだという権威とネタツイがはこびり、ポスト・モダン思想の限界が露呈してきた。
つまり、ポスト・モダン思想の限界とは、先程の大きな物語が終わったという言葉のレベルの説得や理屈はあくまでも歴史や教養主義にすぎず、DNAレベルに刻まれている文芸はもはやメンヘラとして再生産されることになる。もっとも勝ち組は医学部YouTuberなどをやり、負け犬はメンヘラとして朽ち果てるどうしようもなさもある。
1,メンヘラとシンギュラリティ
AIが人間の知能指数を超えるという楽観主義にシンギュラリティがある。
日本だと主に落合陽一『デジタルネイチャー』で提唱された思想だ。
この思想はある意味でDNAレベル、理系からポスト・モダンの大きな物語批判を後継しようとしたアジテーションだ。
むしろメンヘラという言葉による大きな物語批判、文学批判はその実シンギュラリティ擁護という話になる。
現代の大きな物語は理系的にメンヘラとして維持されている面は興味深い。
2,FPもとこと阿部智恵。abunai newsとameba。
能動経済を提唱するFPもとこと性別破壊党を提唱する阿部智恵という二人のフェミニストがいる。
どちらが上かは言うまでもなく、難しい。
ここで問題なのは、FPもとこは老害であること。確信犯的にabunai newsと提唱し、もういいよ、アナタはオリジナリティがないよなのにまだ自らの文学を周りへ侵食させようとする老害だ。
しかし、そんな老害は悪くない。
FEUPで書いた通り、中華未来主義的な方で勝手に暴れている点を含めると、面白いでしょ。
一方であまりにスタンダードで信用に値する天才的最新フェミニストに阿部智恵氏がいる。
彼女は性別を破壊する前衛を提唱するARTISTである。
しかし、彼女は加速主義的なオーソドックスな文脈に乗っていて、いや、しかし、amebaに出ることでamebaを批評するさながら蓮實重彦/古市憲寿的な表層性別宣言&絶望の名古屋の幸福な女性たちをアクションしているのだ。
ようするに、落合陽一的にスタンダードにシンギュラリティとして権威の外から権威を無視するFPもとこの手法と古市憲寿的に権威の内側から権威を徹底することで権威を内から壊す阿部智恵さんはその実のところ、非常に共犯関係的である。
(もっとも阿部智恵氏を出して、陽キャ哲学を出さないのは非常にamebaそのものの権威性を露呈している。amebaの外から批評する落合陽一/陽キャ哲学かamebaの内からamebaを自壊させる阿部智恵/古市憲寿的な手法、その2つの限界が社会のヘゲモニーであり、山上徹也が安倍晋三を射◯したことで露呈したamebaの限界の可視化である。本文では詳しく述べないが、ガーシーと成田悠介は当たり前だが、共犯だ)。
3,中沢新一「クリステェヴァはバカだけど権力あったよ」
ここで最初の問いである詐欺師の上野千鶴子に戻る。刺された宮台真司は今回取り扱わないが、中沢新一はデビュー作チベットのモーツァルトでクリステヴァは理屈こりまわしても結局、メンヘラ治らないアホだけど、その困難さは女性や大衆はみんな抱えているんだと冷笑する(ちなみにメンヘラの栗本慎一郎はこの中沢新一の態度に怒っている)。
なんて、不謹慎なんだ。
国家はいらない。
大学はいらない。
社会は存在しない。
パンツを履いたサル。
奢られヤーな性別破壊党すぎる陽キャ哲学さん。
amebaに出たいのならば、amebaに出た阿部智恵さんと◯婚しちゃえば。
陽キャ哲学の限界は恣意的に性別役割を濫用する男性中心主義であるし、同じく性別破壊党の阿部智恵さんも女性中心主義的にその系から抜け出せないでいる。
これが、社会は存在するですよ。
歴史修正やめて、amebaに抱きつこう。
ようするに、これは半分冗談、男性原理と女性原理の交換、相互批評により、脱構築される可能性は十分ある。
FPもとこ、もういいよ。
あんたが陽キャ哲学にふられたのは、老害。当たり前だろ(もっとももとこさんが陽キャ哲学に告白しまくる態度そのものが冷笑かもしれない。極めて上野千鶴子を引きずった)。
若さに譲り、休養施設へ飛びましょう。
陽キャ哲学は若い女性たちの所有物であるべきかもしれません。
〈追記〉
これが、上野千鶴子が20も年上の男性と結婚した真実であり、短期的最適解を選べば、こうなる。
ようするに、amebaとは1つの世代の社会に他ならない。
皮肉なことに、Fランぼっちの嫌いなメンズコーチジョージ的な手法をFランぼっちの好きな陽キャ哲学は批評している。
ようは、弱者男性も強者男性も存在しないが、新しい大きな物語としては存在する。
世界で影響力のある100人とは、メディアの誤謬であり、メディアがTVからSNS、大衆から文衆化する現在では、あまり意味はない。
しかし、そう理屈で分かっても抜け出せないのが、大衆を信じたい大衆だ。
人間そのものが貨幣であり商品であるというグロテスクな権益が評価経済/能動経済ならば、貨幣の暴力性を訴えるネオ幕府も性別破壊党は人間そのものが貨幣ではないという方向性から物事を考えて、交差しているように思えてくる。
上野千鶴子は天才であるものの、女性の最適解を徹底した女性そのものであり(フェミニズム=ドール) 、彼女が嘘をついた矛盾そのものが文学/政治的に女性たちから良くも悪くも評価されてしまうヘラ構造にあることは忘れてはならない。
月ノ美兎は彼氏が欲しい/いたし、ひろゆきが言う通り、体が小さいほうが着ぐるみを着れるんだという意味でVtuber月ノ美兎と武蔵野美術大学のバンドマン寸胴犬は別人だ。ぴらめきパンダと高橋弘樹が違うように。