【メディア批評】物々交換ができるART展をSFと物々交換してみる。〜大西琢磨と山上徹也はメガネと3Dプリンター銃をどう物々交換するか?〜

 いきなり不謹慎すぎる話題から始めたい。


 銀座の美術紫水『物々交換ができるアート展』が本当に面白かったものの、アーティストと客がお金ではなくそれ以外の何かで物々交換ができるアート展とは直接関係ない2人の天才のことをボクはずっと考えていた

(もっともこれはifのSF的メディアすぎる空想実験であることはお断りしたい)。

 2人の天才。


 それは天才藝大中退ARTIST大西琢磨と天才テロリスト/新興宗教2世・山上徹也である。
 

もっとも美術とテロは本来直接は関係がない。
 しかし、私の尊敬する批評家『宇野常寛』は繋がらないものと繋がらないものを繋げてみることで本質を浮き彫りにするのが、批評活動だと言っていた(CREATION)。

 
 あまりに美術紫水と直接関係がないがゆえに、大西琢磨と山上徹也の2人がボクの頭の片隅で物々交換をしているように感じてしまったのだ(もちろん戯言だ)。

 
 原因は、実は、同席した陽キャ哲学という哲学YouTuberがamebaという「メディア」に余りに出たがっているところ。

 
 また、出店していたあおいうにという藝大ARTISTが新興宗教2世を「メディア」における「テーマ」にしていることだ(この点であおいうにさんは琢磨と徹也の臨界点を緩やかに脱構築している)。


 失礼な話、♀、女性はそれでARTを限界まで止められるかもしれないが、右翼、自民党との♂だとそうでもない(これは性別蔑視や支持政党恣意性だけでもなく、悪い意味でテロリズムのテンポがある)。
 ARTの欲求が限界までいくと男性の暴力性が昇華できない可能性がある。
 冗談では、ない。

 
 大西琢磨は生活保護だったし藝大を中退したことを売りにしているにも関わらず(その過剰さが余りに怖い)、自民党や孫正義と近づき、「政治屋」としてTVタレントを目指している、この不確かさ(反権威と権威は実のところ何か同じかもしれない。もっともそれはアートではなく、メディアかもしれないが)。

 
 あおいうにの作品を見たときに、大西琢磨の限界とともに、限界が前提にある山上徹也の抑えられた暴力さを感じた。
 一方で、山上徹也は自民党の白蟻である安倍晋三を3Dプリンター銃で暗殺したことで著名な新興宗教2世である。
 あおいうには国立の人間だし新興宗教2世、かつ陽キャ哲学と話している内容を聴くと、シャッフルされるかの如し、大西琢磨と山上徹也の光と影が交差する不思議なトーン゙を感じたのだ。

 
 もっともあおいうには女性だし陽キャ哲学は本やYouTuberの人だ。しかし、2人の対話は、当にコンセプチュアルアートにおけるメディアの朧気さ、繊細さ、不確かさを楽しく談笑しているように感じられた。

 こう言うと、様々な小さなメディアや関係者たちに更に干されちゃうかもしれないが、

コンセプチュアルアート(社会アート)を本気でやる気のない人々が多すぎるように感じる(というよりも、コンセプチュアルアート、メディアアートは成立するか?コンセプチュアルはコンセプチュアルだしメディアはメディアか?)。
 もちろん大西琢磨の狂気は生活保護を自給し退学している敗者が勝者になる構図だし、その無敵の人さは山上徹也に重なる面がある。
 
 私が呆れているのは、以前から話している「政治屋とおとぼけ」であり、既にメディアは危機にまで来ているにも関わらず、まだ平成の平和ボケを流さないとTVたり得ない大衆たちの神経症的な病にある。

 

(大西琢磨の厄介さは、退学や生活保護を自ら商品にしながらも心がやぶさかではないところである)。


 私のもう1人尊敬する戦後批評家に私と喧嘩別れした◯浩●がいるが、彼を全否定する形で「メディア」アーティスト落合陽一が現れた。
 やっぱり落合陽一は大衆の病理と繋がっていて、自民党のプロパンガとアートを繋げすぎてしまったところにある。

 当たり前だが、メディアとアートは全く違う。しかし、今やYouTuber以降、資本主義以上にこのメディアというコミュニケーションが通貨のようにアートに良くも悪くも侵食する恒例はあるだろう


 余りに自傷に走るがゆえに自民党や利権の養分になる隘路を辿る大西琢磨と余りに爆発してしまった山上徹也。
 そして、あおいうにが藝大と新興宗教2世という記号を使いながら、amebaに出たい新興宗教2世の哲学YouTuberがARTと新興宗教2世をなぜかつなげて物々交換している。
 要するに、ここにトリックがある。
 だからこそ、ここに物々交換のトリックがある。

 物々交換によって、ドッペルゲンガーを可視化させるSF的トリック(嘘=実)がある

 要するに、ボクの話す話は余りに真実がゆえにメディアにとって嘘(戯言)なのだ。


 話は戻るが、物々交換ができるアート展は、金以外で物々交換をしなければならないというさながら人狼やカードゲームに近い遊び➫美の法律化を駆使することで、そのARTの本質を浮かび上がらせるという批評性が高いものになっていた。
 そこで思うのは、もしもだが(本当に!)、大西琢磨と山上徹也がお互いにメガネと3Dプリンター銃を物々交換するか?ということだ。
 もしあの場に「天才」大西琢磨がいて、「テロリスト」山上徹也が客として来れば、安倍晋三は死●なくて良かったかもしれない。いやいや、もしかすると、物々交換は失敗し大西琢●という天才は撃た●ることで天才としての負のステェグマの陰キャとして来世で陰キャの天才として出世できるかもしれない。

 もちろん私は大西琢磨を批判はしていないし、山上徹也そのものは否定的だし、山上がアーティストなぞ談じて思っていない(あくまでも資本主義を否定した先にある思考実験のゲームに山上徹也も参加するかもしれないからだ)。
 なぜならば、大西琢磨が過剰に天才を自称し、そしてその裏で生活保護や退学、様々な負の哲学を歴史する行為がかえって政治的、宗教的の隘路に彷徨っているように感じるからだ。
 山上徹也はARTには興味がないかもしれないが、きっと3 Dプリンター銃には興味がある。
 行き過ぎたメディアと資本主義は天才のメガネと鬼才の3Dプリンター銃を物々交換できるだろうか?
 これは筆者の妄想だし、戯言にすぎない。
 だが、ifとして思うのは、ameba「NEWS」(ネットNEWS風バラエティー番組/メディア)は病んでいるということ。
 そして、amebaNEWSが病んでいるとしたら、そこで批評家メンフィスくんのように冷笑してレトリックから乖離する態度が正しいのか?ということ

(大西琢磨も山上徹也も自分を見てがある。これがメディアだ。その時、我々は天才からテロリストから脳内として逃げれるか?)。
 もちろん大西琢磨も山上徹也もそっくりさん同士くだらないと断罪しても構わない。
 しかし、その2人は物々交換するか?という思考実験そのものは面白いし、実際にやってほしいと思うのだ。
 
 社会は存在しない。
 
 陰キャも存在しない。

 その当たり前の証明として。

 皮肉抜きに天才大西琢磨は留置場にいる山上徹也としてTVかYouTube、あるいは留置場、あるいは美術館で物々交換をしてほしい。

 この時きっとメディアとメディアは交差し、アートとは離れることだろう。

 もっともこれはビジネスとアートがきっても切り離せないように、ポリティックとアートも離せない地点にあるのかもしれないが。

 もっともメディアとアートの共通項があるとしたら、リアルタイムで実際に実験しないといけないところにある。

 ところで、最後に留保せざるおえないことは、とってつけたかのようで申し訳ないが、メディアとアートの違いである。

 一見共通項の多いメディアとアートの最大の違いとはメディアは能動性と能動性の奪い合いであり、そこでは「何者」かが問われている、アナタは陽キャか陰キャか、あるいは天才かテロリスト、白か黒しか極端な形、表層されない、良くも悪くも。

 幸いなことにアートの良くも悪くもなところは、アートは計れないところにある(綺麗事の美辞麗句かもしれないが)。

 もっともこのメディアとアートの関係性は更に様々な共通項と相違点を醸し出すだろう。

 物々交換ができることが問題であって、答えが描いてあるものでないからだ。

〈追記〉

 メディアの不思議さを()に入れてみたい。

 私はここでSNSやTV、バラエティ、報道といったメディアを物々交換できるアート展と比較して話している。

 昨今のアートにはメディアのどう見るか見られるかのゲームが付与されているという。

 その時に、この物々交換ができるアート展は、ifとしてのドッペルゲンガーを召喚してしまう可能性がある。 

 物々交換という行為で作品の本質を浮き彫りにするという点で日常が非日常と物々交換されている妄想を感じてしまったのだ(月ノ美兎にスパチャするような人間だ。申し訳ない)。

 ところで、余りにふざけすぎてしまって歯を食いしばったピエロのメガネが割れていた。

 そのメガネは山上徹也のものか?それとも…。

ifは面白い。

 

 

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