はじめにまずvtuber文野環を検索して出来たら音声で聴いて欲しい。
私がはじめにこの迷惑系vtuberを紹介したのは、幸福を考えるときに人はまず「キャラ」(その人固有のロック)に支配されていると思うからだ。
惜しくも亡くなってしまった行動経済学の泰斗/カーネマンは経済合理的に動く想定をする経済学が真っ赤な嘘で心理学を経済学に導入せよと行動経済学を提唱しました。
しかし、こんなことは数学の得意だった友人はいつも言っていました(その人は早慶大学院キャラレベルです)。
「経済学なんて文系の疑似科学だ」
全くその通りで、そもそも大学が建前によってできた西洋近代の信じられた「論理」にすぎないのですから。
しかし彼はオウム真理教よろしく新興宗教へ堕ちました。あんなに合理的に物事の一面を見抜けようと、その人の「キャラ」であって(主観第一)、別段生活する時にあらゆる全ての真実を知る必要もないしそのキャパはないからです。
これがキャラ(インフルエンサー)が論理に介入する厄介さです。
もっとも新興宗教のその友達の言う通り、キャラ、自らのロックバンド的なありかたこそが人生の幸福ですから、究極的には人が100年前後生きることにも意味は別段ないからです(よって、非合理的な人文知学問や新興宗教がいまだに現代でもインパクトを一定数持ちます)。
だから、冒頭の文野環に戻りますが、「キャラ」というめちゃくちゃ曖昧なものにボクたちは支配されていることを理解していただきたいのです。
vtuber会社エニカラーでは迷惑なキャラで有名な文野環でもにじさんじというクセの強い配信者だらけでは居場所がある(もっとも文野環の強烈なキャラはあのエニカラーでも居場所が少なく、にじさんじという評価経済を批評していることは留保しとくべきです)。
文野環は一例ですが、幸福を具体的に考えるときの一例がこの人の雰囲気に現れていると考えるから。
キャラはその人、その人によって違いますし、周期として喜怒哀楽は変わります。
よって、まずアナタのキャラ、つまりアナタなりのバイアスを前提に話をしなければ、幸福の定義もしようがないんだというのが私の見解です。
資本主義や世間、異性など「理論」的な話は沢山知っていますが、なかなか今まで話せなかった。
その理由は理論を語っても、バズらないから(異性や同世代からウケないから)。
不謹慎な動画やポルノこそがバズるから。
キャラとは言ってもそのキャラは主観や感情論ですから、最終的には原始的な欲望に集約されます。
キャラと対立しながらも共存する原始的な欲望を肯定する話に評価経済があります。
有名人を見て幸福になれない理由
評価経済社会は「いいね」が支配する社会のことでインフルエンサーなどがわかりやすい。
この評価経済社会は新しいトレンドで貨幣経済社会を否定するために流行っています。
貨幣や更に普遍すると20世紀の近代学問はとかくイメージが悪く、争いや格差、戦争を犯した。
だから、偽善的にスピリチュアルへ生きてエコロジカルに優しい世界を作るコンプライアンスの時代へと舵を切り出した。
これが評価経済社会ですが、どんなに評価経済社会で優しい世界を作りたいと「キャラ」たちが描いても、人間の本姓そのものは変わりませんから、不良は良くないよと厳しく当たっているようなもんで、根本的な人間の本性は変わっていない。これが評価経済社会が貨幣経済社会を憎みながらも結局、貨幣経済社会を再生産している証なのです。
そうなると「いいね」稼ぎは「かね」稼ぎに悩む人々が拡張した新しいフロンティア、カインとアベル、かねの弟という話になる。
だから、若者たちが有名人になりたいと奔走しながら有名人を憎むこのアンバランスさは「いいね」へ走りすぎることで金融資本「かね」から笑われてしまっているのだ。
ようするに、「いいね」や「キャラ」はいわゆるお気持ちにすぎませんので、いくら取り繕ったり酒を呑むようにロックをやろうと、いいねによって下部構造、偏差値0〜50は救えますが、偏差値51〜のマズローの5段階欲求における自己実現までは達成できない。自己実現の前は社会承認欲求であり、SNSで有名人を見ることで疑似体験をし社会承認欲求は満たされますが、同時にアナタは無キャなんだと自己実現は有名人から剥奪されます。これがインフルエンサービジネスの真実であり、社会承認を満たすと自己実現を剥奪される優しい世界(陽キャと陰キャの対立)、コンプライアンスやインフルエンサーの限界だ(この詳しい社会承認を得る代わりに自己実現を剥奪されるメカニズムは幸福なX.マズロー批評で書きました)。
(もっとも自己実現は主観ですから、そのvtuberですら神であり、実態は大した事ないかもしれませんが…)。
ジレンマはアナタはバズって他者から能動性を奪う必要がありますが、アナタは確実に誰かに嫌われる。これが政治で神の戦いは「いいね」集めのために原始的な対立を作ります。
しかし、冒頭の文野環が分かりやすい例ですが、評価経済社会におけるバズるはその人が所属したいキャラやヘゲモニーによって大きく変わりますし、再現がありませんから、アナタの欲望量で変わります。
これを私は個性経済学と呼んでいて評価経済が行き渡りますと、botのようにSNSがなってゆき、その人のキャラから資本を再設定する社会へなると思っています。これが大が小を兼ねるバズる考えだ。
タイパという冷笑(お気持ちw)
これだけポルノ(老害も?)が多いとタイパ力はZ世代のヘゲモニーになってゆく。
タイパとはタイム・パーフォマンスのことでZ世代がどういう世代か理解するときに分かる。
タイパは冷笑と近しくZ世代の若者ほど評価経済を愛しながら憎んでいます。
それでも評価経済社会がなくならないのは、人間固有の感情論、構造だからです。
北田暁大『嗤う日本のナショナリズム』に書かれますが、純愛と冷笑は共犯関係で愛情空間で感情論と諌める冷笑が起きるのは共犯関係だからだ。
大事なことは冷笑はあくまでもお気持ちであり、厳密な論理ではないから。
冷笑はあくまでもお気持ちであり、厳密な論理ではないから。
冷笑はあくまでもお気持ちであり、厳密な論理ではないから(冷笑や論破は低IQのお化粧だ)。
こうして、嗤いながら愛する気持ち悪い論理厨が増えるのだ。これが「ひろゆき」ミームの支配でしょう。
タイパや冷笑はZ世代特有のお気持ちなので普遍的に社会承認を一言でまとめるとこうなります。
そして、人は冷笑を捨て去り(社会承認)、愛を持って自己実現へいいねするんです。
これが陰キャと陽キャ、インスタグラマーとネット民の対立だ。
もっとも陽キャか陰キャかもスラングのようなものでありネタとしては面白いですが、現実は淡々と楽しく生きれば良しなのです(そもそも陽キャに憧れる時点でコンプレックスの系にハマってますから)。
本物の陽キャは自分で陽キャと名乗らないからです(とにかく明るい安村みたいなものです)。