美術とは何か?定義が難しい。
これが定義できるのならば、楽だよねと思う。
なぜならば、美しい行為に走りすぎると、そのまま過激な行為に走ってしまうかもしれないからだ。
ただ美しいことを追い求めすぎてしまうと、現実と理想のギャップに絶望する宗教的な要素を美術は帯びている気もする。
だから、新興宗教二世の統一教会二世ARTISTあおいうにさんが極めて現代のオーソドックスなアートの定義を備えている気がする。
だからこそ、ある意味ではアーティストの定義をしっかりとする必要はなく、もう身体が動いて良くも悪くも行っていたら、それはもうアートなのではないか?とも思う。
ただ問題は、その実践的なART行為が現実のルールとぶつかってしまったり、あるいは、世の中で言われている様々な拝金主義的な価値観とぶつかるときにARTの価値が問われてゆくような気がする。
ようするに、私はずっとアートを行ってきたが、そのアートが現実とぶつかる亀裂に関する危険性に関しては気を付けないといけないことを身に染みて理解した。
が、表現したいことはあるわけで、それをちゃんと社会の規則的な範囲において行う必要があるのだ。
ただこの社会の規則的な範囲というものが恐ろしく絶望的で窮屈であることがある。
たとえば、左翼活動家の堀川夜鳥くんがおそらく自殺した。
そのような現実を早急に肯定などできるだろうか?
ここに怒りはないが、明らかに警察や司法は社会的ななんらかの貧窮に対して無力である(もちろんただちに100%で極端にそう批評してはならない。そうじゃあなくて、30%ぐらいの小さな火で批評しながらも、その現実と理想の隘路をどう調整するかがアートの役割だと分かってきた)。
ようは、美術とは極めて美しいことであり続けるが、理想と現実のギャップの隘路をどう穿つか?という難しいことを認められているのである。
そういう意味では今でも私はアートを行い続けている。
ただ基本としてあおいうに氏によってしょうもなくていいから絵画を描いたほうがいいよねやtweet自体を作品にする、または統一教会であることを真剣に向き合ってアートの中で徹底的に昇華することで、極力暴走状態にならないように抑えながらも、リアリティを出すことが重要であることを知った(本当は彼女、あおいうにさんを見習って夢日記までやったほうがいいが、そこまではできません笑)。
おそらく堀川夜鳥くんにはこのあおいうに氏の手法がしっかりと教えられていなかった、いや、もっと言うと、そのような手法で抑えられることを拒絶したのではないかと思う。
実際にあおいうにさんと会ってから、毎日極力絵は精神治療と整理として描き続けてる癖をつけていて(基本に立ち返るためにも)、その前には昨年にアウトサイダー・アート(スペキュラティブ)を勉強し、漫画(論画)をコミティアで出店した(ここらへんは本当に大変だった。基本となる絵の作法として勉強した)。
昨年、私はアートを「政治」だと定義したが、今回ZYXというINTERVIEW系本などでは、アートは「開かれた右翼」だと定義をより鋭くした。
そして、AIによって無駄なく作業を代替し尽くすことで見えてくるものがある行為、AIを常に弄ることが当たり前になった社会をプレゼンする行為そのものをGrok哲学と評し、それを本は破れ!をする際のより理想と現実のギャップを埋める形、今のARTとして提唱している。
話をまとめると、アートとは、政治である。が、現実との折り合いをしっかりとつけた表現という緊張感を持った美しさを保つ必要がある。そして、それ(アート)は実行されてゆくプロセスであるけども、暴走しないように常に美学として言語を片手に批評しながら注意する必要があるということである。
美術は言語の外すぎる実践の面があるため、交通ルールを守るために、常に美術をやるときにこそ批評的態度が必要になってくる。あるいは、AIを第三機械として片手に自分を律する必要があるということだ。
ここまできて、アートの簡単な定義を改めて自分なりにまとめてみたが、しっくりとくるアート考察にマルクス・ガブリエルのアートの力がある。
ガブリエルはARTISTとARTは分けないといけないと言っている。
なぜならば、ARTISTは暴走する恐れがあり、できたらば、ART作品とARTISTの人間は分けて見ないとそこに主観が発生する可能性があるということである。
だからこそ、ARTは様々な定義で縛られない自律性を持つとガブリエルは言う。
そして、だからこそ、ARTISTは懐疑主義者的な態度を常に持っているらしい。
もっとも、このようなガブリエルの定義はつまらなく、やっぱり危ないかもしれないが、不謹慎系YouTuber坂口章の美的表現はROCKで美しい。
が、問題は、坂口章さんは自宅に引きこもって惨めな人生を半分接種しながらも、そこでギリギリの反抗をしているということだ。
坂口章さんほどシビアだと、ROCK表現に収斂してしまう。
ROCKとARTは違う。
ここで言うROCKとは反抗を純粋に指していて、酔っぱらった物言いで昔の音楽を良くも悪くもひけらかすだるさとは一切違うことを指す。
だから、話をまとめると、考えるだけ考えたら、後はAI(あるいは良くも悪くも司法)に代替させるだけでいいと思う(に従いざるおえないかそのゲームの中で戦いながら乗り越えるしかない)。
この文章をGrokに投げて、美術の定義を矛盾がないように再定義してもらおうと思う。古田更一の文章です。
以下、Grok。
古田さんの文章をもとに、アートとは何かを中学生にも分かりやすく、シンプルにまとめます。これまでの話をコンパクトに整理して、ポイントを押さえた説明にします!
アートとは?
アートは、心の中の思いや夢を、絵・言葉・音楽・行動などで表現すること。現実と理想のバランスを取りながら、ルールを守って自由に形にする、キレイで深い行為だよ!
アートの大事なポイント(超分かりやすく)
- 気持ちを形にする
アートは「好き!」「変えたい!」みたいな心の声を、絵を描いたり、物語を作ったりして表現すること。たとえば、好きなキャラの絵や、SNSでのつぶやきもアート! - キレイも問題も両方OK
アートはキレイなものだけじゃなく、世の中の問題(環境やルールの不満)を表現してもいい。人に「考えようよ!」って伝えるのがアートの力。 - ルールの中で自由に
アートは自由だけど、社会のルール(人に迷惑かけない)は大事。たとえば、壁に落書きはダメだけど、キャンバスならOK。ルールの中でどう表現するかが面白い! - 夢と現実をつなぐ
アートは「こんな世界がいいな」(理想)を追いながら、「今はこうだ」(現実)とも向き合う。たとえば、環境問題の絵を描くなら、未来の希望と今の問題を両方考える。 - 暴走しないように注意
強い気持ちで表現するのはいいけど、ルールを無視したり、過激になりすぎるとトラブルに。アートはみんなとつながるためにあるから、落ち着いて表現しよう。 - AIがアートの仲間
今はAI(Grokみたいな)を使って絵や音楽を作れる。AIはアイデアをくれたり、作業をラクにしてくれる。アートを楽しくする道具だよ!
アートと「危ないこと」の違い
アートは自由な表現だけど、やりすぎると危ない。たとえば、世の中を変えたくてルールを破ると、それはアートじゃなくて問題に。古田さんは、アートをするときは「批評」(自分の表現を冷静に見つめること)や「言葉で考えること」が大事って言ってるよ。それで暴走を防ぐんだ。
具体例
- 絵や漫画:ノートに好きなキャラを描く、コミティアで漫画を売る。
- SNS:Twitterで自分の思いをつぶやく。
- 行動:学校をきれいにするプロジェクトをポスターで表現する。
最終的なアートの定義
アートは、キミの心を絵や言葉で表現して、世の中や人とつながること。ルールを守りながら、夢と現実をつなぐ、キレイでワクワクするプロセスだ!
中学生への一言
アートは難しくない! 好きなことや「こうしたい!」って気持ちを、絵や言葉で出してみて。それがアートの第一歩。もし「どんなアートやってみたい?」って思ったら、Grokに聞いてね!
Grok引用終わり。
こうして、AIによって徹底的にGrok(思索)することによって哲学にまで昇華されたことだろう(これは現代風モチーフ)。
これで、ARTの定義は「大体」完成した。
身も蓋もなく言えば、美学にまで昇華することはカントの判断力批判をただ理解すればなんとなくアレ(結局言葉が得意なヤツが有利なんかよw)なのである。その役割は今やあまりに権威主義でバカバカしいのだから、AIのやらせればいいという時代的なカントの読み替えが、このGrok哲学という発想法でありアートそのものの実践なのである(インテリのAIへの代替提示批評)。
ここまで話しても、まだアートの役割は残っているだろうか?
前半のアートの定義をAI(法律)などにできる限り、客観的なものに照らしてみた上でまだ、何かやれることややることはあるだろうか?
それこそが、残されたAIや法律を認めた先にあるアートの本質であるかもしれない。
恐らくそれは、「優生美術」だとボクは思っているけども(ARTISTとして行動するモチベーションに取り憑かれていることそのものが作品や作家になる優生的なことを批評する美術のこと)。
優生美術とは、DNAそのものがARTISTたらんとしている言動や行為自体が作品として機能すること。私が思うAI以降のアートのより厳密な定義のこと。
https://note.com/hurutakouichi4/n/nc13304416d6e