複雑系と中沢新一の終焉という延長論。〜商品としてのX〜

 社会構造は複雑系であり、その複雑系の複雑さを神秘主義の結露として僕はPhantomMedicineと呼んでいる。

 この複雑系の擁護は、結局のところ、チベットのモーツァルトを提出しコピーライトに勤しんだ元宗教学者である中沢新一が、2冊目に雪片曲線論でフラクタル構造を語りだしたことと同じ構造である。

 だからこそ、最先端の大学教育として僕は中沢新一先生が作り上げた多摩美術大学美術学部藝術学科の芸術人類学をかろうじては擁護したい。

 しかし、芸術人類学の限界は東京藝術大学という既得権益よろしくかつてからデッサンが大衆に分かりやすい西洋絵画や東洋絵画を描いて扇動していた歴史の修正主義としての開かれた右翼としての限界はあるだろう。

 そこに人類学というスピを導入することで煙に巻こうとする小賢しさもある。

 となると、やっぱり芸術人類学の限界を徹底した先にイーロン・マスクよろしく加速主義があるという話になる。

 もっとも、ここで、YouTube的な優生思想は頂けない。

 なぜならば、御用学者が切腹を煽ったり、私より若者が自決パーフォマンスに走る有り様であり、唯物論のやりすぎは国家転覆の思想と結びつく。そういう意味でYouTubeは一切見る必要はないのだ。

 では、Xの良いところは何か?になるが、それは法的ゾーニング装置である。

 もちろん法律はChatGPTに淘汰されるし、一方で思弁的実在論のような詩になるだろう。思弁的実在論とChatGPTは共犯関係、文系と理系の弁護、その人の政治であり、それ以上の価値はない。

 その法的な些末さを駆除する意味において、政治を徹底すると、加速主義になるはずだ。

 その代表例に資本主義的リアリズムのマーク・フィッシャー、暗黒啓蒙のニック・ランドがいる。

 しかし、これはアーティストにとって些末な教養、英語の勉強にすぎない。

 資本主義的リアリズムとは、もう資本主義以外に道はないんだという高学歴弱者が博士まで行き、既得権益に居座りながら、自決することで有名になったザ・三島由紀夫である。むしろマーク・フィッシャーが自殺してよかったねと嗤うべきかもしれない悲壮感はある。

 人文知系の大学学部は一切必要ないことをマーク・フィッシャーは教えてくれる

 これが、資本主義的リアリズムだ。

 次に、暗黒啓蒙を提唱するニック・ランドはしょうもないジル・ドゥールズを読んでいるいけてない人文知系のバカな既得権益の開き直りである。

 単に現代では複雑系科学に淘汰されたリゾームを現代で同じネタでやったら、つまらないよねという話にすぎない。

 これが、人文知系のマンネリとしての暗黒啓蒙の真実である

 ジル・ドゥールズ=資本主義者の既得権益のアホはロックスター=右翼的な消費もあったことから、これは東京の書店などを全て潰すことこそが真の思想であることが分かるだろう。

 もっとも、大学や書店に置いてもらおうと思ったら、ChatGPTで代替されるようで、思弁的実在論的な詩として書店においてもらえるような、権威である必要がある。 

 そのためには、書店不要論、あるいは多摩美術大学不要論が書店に展示され、そして多摩美術大学不要論が多摩美術大学に作品として展示されることこそが、ポストモダンの徹底、ChatGPT=思弁的実在論である。

 Xを展示、作品として置かれる写真集として加速主義、テクノ・リバタリアンは剥製として機能するのである。

 

 

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