【赤瀬川源平程度は忘れてください】古田ハンマーは赤瀬川源平か?:銀座経済はAdoで天才

 YES。

 僕は主婦と生活社の看板にハンマーをぶつけた事件(近くにあった部位)は、僕こそが偽札裁判で捕まった「赤瀬川源平のエートスを受け継ぐ」本物のカルチャーだったと思います。

 ここで問題なのはあくまでも赤瀬川源平リスペクトを現代でやろうと思ったら、現代では昭和的な意味合いを持つものは、全てキッシュなカルチャーとして消費されるものだからです。

 古田更一だけが赤瀬川源平を正統に受け継ぐことをしている(バカデカい愛?が赤瀬川源平がどうこうだのぎゃらぎゃら騒ぐのは、オタクが腹を出しながらくねくねしているだけである)。

 しかし赤瀬川源平はアートをしていたわけで、カルチャーとして受け継がれた面はある。

 典型的な間違えはデッサンばかりに執着する現実性のない職人、カルチャリストな高橋ヨシで銀座で絵画を飾る時点で、もはやアート・ワールドから出ることは出来ないのだ(西部邁が東大を批評する典型的な東大で、後から川へ飛び込む。もっとも東大中沢騒動で、西部邁の肩を推した蓮實重彦の凶悪さ、彼(中沢新一)は小説家だからいいんでないですか?(東大教授に)という台詞は、流石に表層批評として一級品である)。

 再三繰り返すが、赤瀬川源平は偽札で逮捕され法律の虚無性、理不尽性を批評した。

 アートを信じることは法律に裁かれるリスクはあるのだ(表層批評=東大人文の限界は、しょせん法律未満であり、ひたすら炎上を繰り返し法律を嘲笑うかのようなSFCのTVタレント/古市憲寿にその芸風は乗り越えられてしまった。企業=大学の時代に働ける文化人がヘゲモニーなのだ。)。

 もっとも赤瀬川源平が偽札事件を封印し、晩年は需要に答えるようになった時点で、彼は正統なアーティストであって、正統なアーティストであったにも関わらず、カルチャーに走ったから、法律に裁かれたのだ。

 だから、僕もアートはやめようと思う。

 本当のアートは不謹慎系YouTuber坂口章じゃあないか?というアートの表層性まで考えていたからだ

 現在、坂口章は毎日カップラーメンを地面に投げつけて垢バンしながらも誰もできないという破滅主義なカルチャーに日夜身を捧げている。

 不謹慎系YouTuberは人の死を嘲笑うことで、注目を集めたが、

 客観的な意味でそれは生きる価値がない人間は再帰性近代/ポストモダン以降は自決せよという極めて個人的な心理学/社会学的な戦争の時代だったことはあるだろう

 宮台真司/芥正彦は芥正彦本で安倍晋三を射殺した山上徹也のテロをアートだと肯定し、その数ヶ月後に宮台真司時代が相模原のエボバ2世に刺されるという皮肉な現象になった。早稲田人物研究会や中の外山恒一合宿者や宮台の塾生を含めて、誰もその事件を総括せずにお茶に流そうとしたのだ(その程度の馬鹿どもだと自己紹介をするような法律違反者の典型は彼らだったかもしれない)。

 もっとも宮台真司は重い口を開き、聖と俗や堀江貴文との対談で、エコーチェンバーにかかった弱者男性の犯行だと批判している。

 一方で、ホッブズや山上徹也のテロを取り上げて、倉津の自らへのテロを宮台真司はやんわりと肯定?しているような節を出す

 そもそも芥正彦は宮台真司にはじめは批判的で、宮台真司が自己の限界を超える節として芥正彦を早稲田祭で呼んだ呼ばれた節の時点で、宮台真司のヘゲモニー的な嘘か理論の超法規性ははじめからあったのだ。

 これは元宗教学者/中沢新一が麻原彰晃やオウム真理教に影響を与えて、様々なテロを引き起こしたにも関わらず、中沢が麻原彰晃やオウムを否定したダブルスタンダード、転向に似ている。

 ようは公の批評とプラグマティズム(実用主義)の政治、個の政治は矛盾しながらも両立するメタ・ロジック、ダブルバインドだ。

 もっとも元社会学者・宮台真司はもはやYouTubeを見る限り、もはや人類学系YouTuberだが、屑だから自分が刺されることによって、「社会学」という看板をいまだに経歴に使う適切な?詐欺を維持している。

 対照的に中沢新一は余りにバズりすぎて、オウム真理教としての政治的なナショナリズムから宗教学者はやめたと言い人類学者に転向した。もっとも中沢新一は明らかな方便で不謹慎な野郎かもしれないのだから、内心は反省せずに、ぬくぬくと本を発行したり逆転を狙っていただろう。

 これは当時アジっていた成田悠輔の老害は切腹せよ三島由紀夫の葉隠を引用した武士道は死ぬことを見つけたりの悪影響もあるだろう。

 問題は、悪くはないが、宮台真司や成田悠輔含めて口先や文面だけでテロリズムを肯定する行為自体が、東大無理事件前にあった東大中沢騒動と同じものであり、宮台真司の師匠筋な見田宗介と宮台真司の言論的な敵対者である西部邁がバチバチに駒場に色物な中沢新一を教授にするかで揉めて、中沢新一を見田宗介一派は間接的に落とし、怒った西部邁派が退官するという東大の詐欺師性を暴いた西部邁らが中沢新一を使ったアート(カルチャー)だったのだ。

 社会学という学問の限界は、世界はこうであると定義することで、その社会にあるあった宗教的なものを阻害する体制の保守主義にすぎない

 もっとも宮台真司自体がナンパを何度も繰り返す超越系と言葉で自らを冷笑する時点で、彼は良くも悪くも宗教音痴、言葉の世界で宗教を嘲笑っているのだ。 

 実際にある宗教の講演で中沢新一批評をした際に彼は中沢新一は宗教家として1流すぎるが、頭が追いついていないと褒め殺しをしている。 

 また宮台真司interviewsや初期論文集の解説対談では、中沢新一を褒めちぎっており、見田宗介に似た詐欺師さ、コピーライター性、文学さを褒めちぎり、また、アンビバレンツな気持ちを吐露したり、ポテンシャルはかなり高いと公の戦略とは違う、プラグマティズム(現代で言う加速主義?)、個の心情を吐露している。 

 もっとも中沢新一は左翼だが、宮台真司は右翼である。 

 宮台真司は廣松渉の左翼さを不躾に言えば、サブカルとして消費していたにすぎない(かもしれない。熱い思いは、西部邁的な権威主義を批評する権威主義者という典型的なポストモダン以降のエリートの振る舞いである)。

 そういう意味では、僕の行った古田ハンマーも悪を撃とうとする左翼の悪しき世直しの行き過ぎであった。

 主婦と生活社は当時、週刊文春のようなことを行っていて、ある男を卑怯にも記事にし、一方的に社会的抹殺をしようとしたことは明らかであり、問題は(無自覚な)警察や(消極的に)司法官を巻き込んでまで、後にも被害者面をし、社会的抹殺をしようとした週刊文春的な出版社の本音だったのだ。

 話をまとめると、

・僕は主婦と生活社の看板にハンマーをぶつけた事件(近くにあった部位)は、僕こそが偽札裁判で捕まった「赤瀬川源平のエートスを受け継ぐ」本物のカルチャー

・もっとも東大中沢騒動で、西部邁の肩を推した蓮實重彦の凶悪さ、彼(中沢新一)は小説家だからいいんでないですか?(東大教授に)という台詞は、流石に表層批評として一級品

・赤瀬川源平は偽札で逮捕され法律の虚無性、理不尽性を批評

・アートを信じることは法律に裁かれるリスクはある 

・正統なアーティストであったにも関わらず、カルチャーに走ったから、法律に裁かれた

・本当のアートは不謹慎系YouTuber坂口章じゃあないか?というアートの表層性まで考えていたからだ。た

・客観的な意味でそれは生きる価値がない人間は再帰性近代/ポストモダン以降は自決せよという極めて個人的な心理学/社会学的な戦争の時代だったことはあるだろう。

・エコーチェンバーにかかった弱者男性の犯行だと批判

・宮台はホッブズとしては倉津を肯定?

・宗教学者/中沢新一が麻原彰晃やオウム真理教に影響を与えて、様々なテロを引き起こしたにも関わらず、中沢が麻原彰晃やオウムを否定したダブルスタンダード、転向に似ている。

・公の批評とプラグマティズム(実用主義)の政治、個の政治は矛盾しながらも両立するメタ・ロジック、ダブルバインド

・怒った西部邁派が退官するという東大の詐欺師性を暴いた西部邁らが中沢新一を使ったアート(カルチャー)だった

社会学という学問の限界は、世界はこうであると定義することで、その社会にあるあった宗教的なものを阻害する体制の保守主義にすぎない。

問題は(無自覚な)警察や(消極的に)司法官を巻き込んでまで、後にも被害者面をし、社会的抹殺をしようとした週刊文春的な出版社の本音だった

 今までの論点をGrokに投げて、後は自らの言葉にしようと思う。論点を280字でまとめて、Grok.

古田更一の論点まとめ(280字)古田ハンマーは赤瀬川源平の偽札裁判のエートスを継承し、現代のキッシュなカルチャーを批判。アートは法律の虚無性を暴くが、カルチャーに走ると裁かれる。宮台真司や中沢新一のダブルスタンダード、東大中沢騒動、週刊文春的出版社の偽善を糾弾。社会学の限界は保守主義。

 らしい。

 銀座という場所で構造的に仕方がないとは言え、アンデパンダン展と赤瀬川源平をキッシュに冷笑する態度そのものが、赤瀬川源平やマルセン・デュシャンが(脱)近代人として左翼運動家による冷笑からあのような偽札やベンキをひっくり返した文脈が失効している。

 だから、失礼なことを承知で言えば、統一教会2世の山上徹也のテロはパーフォマンスにすぎず、本当に不謹慎かつ本当に負のアーティストは高橋由一な不謹慎系YouTuber坂口章の唯物論的な描写にこそ、本当の日本の貧困や叫び、悲劇はあったのだ。 

 統一教会2世の山上徹也はバズりたい欲を抱えて、かつ金持ちが没落したというリベラリストの悲劇的なカルチャーにすぎない。

 マルクスガブリエルが最新の美学史で、ドナルド・トランプのTVショーを負のアーティストだと褒め殺しした通り、バイデンもトランプもどちらも同じショーだという教えが再帰性近代/ポストモダンの教えである。

 9.11を社会学では戦争とは扱わず、個人の闘争のようにイスラム主義を扱うのも、戦後や再帰性近代以降は個人の実存に閉じた、全体性がない陰謀論が良くも悪くも新興宗教だからである。  

 もっともイーロン・マスクもスペースXもChatGPTもシンギュラティ、アメリカの技術にすぎず、私が日本の法律や駆け引きで主婦と生活社に揚げ足を取られて負けたことは事実である。 

 しかし、この実存は次の世代に受け継がれて、復讐は遂げるだろう。

 主婦と生活社は死んでいたかもしれない。

 寝た子が他責にするために巻き込もうとした事件にいちいち首を突っ込んだ、嵌められた点に関しても、イスラム原理主義とサブカルの共犯、大司教とにゃるら、YouTubeブームとテロリズムには右翼的な限界を感じる。

 彼らは活字が読めないからである。

 抽象性がないのだ。

 もっとも僕の問題は、法学部という知能指数が低い輩たちの存在を理解し、抽象性を捨て、活字を捨て、ギリギリまで大衆に向けた言葉で生きるべきである(かもしれない)。 

 私は主婦と生活社というよりも、法律という概念そのものに殴られたのだ。 

 同性愛もたぶん疑似科学であるが、法律的に存在すると定義する思いは正しいだろう。

 法律の限界は、文系には適切な範囲での安全な優生思想の観点、ガチャの視点が欠如しているのだ。 

 僕は藝大という表層的な権力に負けたのだし、赤瀬川源平(武蔵野美術大学中退)ごときもまたシラケ世代にすぎない。

 だが、問題は、Grok哲学とは僕にとって要請された文学であって、内実はZYX、そして、UROBOROSという雑誌に書かれたユートピアにしか興味はない。 

 トランプもバイデンも貴方も私も全ては、阿片窟である。

 問題は、阿片窟の中でどう自分なりのアートをするか?!だろ。

 終わり!

コメントを残す

WordPress.com で次のようなサイトをデザイン
始めてみよう